「自選 谷川俊太郎詩集」 谷川俊太郎

大学に慣れてきた頃。詩というものとまだ、本当に出会っていなかった私であった。ふとある時に先輩に自作の詩を読ませられた。

いきなりだったので戸惑ったが、言葉がとても心にしみこんでくるようで感動した。

詩はとてもいいものだと思った。それからなんとなく詩が気になる様になった。書店で、ある詩の文庫本を手にしてみた。それが谷川俊太郎の詩集であった。
するとそこに先輩の書いたものとそっくりの作品があった。

もとい。先輩の書いたそれがそっくりだったのだ。まさか真似して書いたのではあるまいか。だとしたら彼は卑怯者ではないか。本当に読んだ瞬間に尊敬したので、その分だけ憤りすら覚えてしまい、それを買ってすぐさま先輩のアパートへ。

彼は堂々と答えた。「その通りだ。マネして書いたのだ」。あまりにも当然だという顔で応えられてしまい、二人で大笑いした。

それから私の手にはその文庫本が残った。

それは集英社から出ていた谷川のアンソロジーの文庫であり、若いときの作品中心にそれは編まれていたのであったが、それをバッグにいつも入れて、電車の中や待ち時間など、開いてぽつぽつと読んでいた。

猛烈に詩を書き始めるようになるまで二年の間ぐらい、こんなふうに詩に近づいたり離れたりしながら過ごしていたのである。静かに詩を読み耽っていただけの我が青春時代を懐かしく思う。

「あの青い空の波の音が聞えるあたりに/何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい」。ちなみに先輩が盗んでいたものは、この「かなしみ」という詩であった。あまりにも有名な一篇で、教科書などにも掲載されているものだから、私のほうがもっと早く気づくのが本当だったのかもしれない。しかし先輩の言葉を通してからまた出会ったともいえるこれらのフレーズに、私の若い感傷の瞼は大きく開いたのだ。

「透明な過去の駅で/遺失物係の前に立ったら/僕は余計に悲しくなってしまった」。大学まで通う片道たった十分の間の列車の中の時間であったのだが、毎日揺られながら本を眺めていると、かなりのものを読むことが出来ることに気がついた。

特に短い間ではあったとしても、数編の詩を何度も味わい直すのには十分であった。がたごとと揺られながら詩の言葉の一つ一つに新鮮に触れるということは、体に感応させながらそれを読もうとすることとどこか似ていた。

人生とは面白いもので、素直に詩を読む時間をちょっぴり大事にしていただけの人間が、詩を書くということを一生の仕事にしようと心に決めるようになるとは夢にも思わなかったし、谷川さんと親しくさせていただくようになるとも想像しなかった。

初めてのご本人との出会いは、自分が三十代を過ぎて、山口の秋吉台で開かれたイベントに参加するために乗った飛行機であった。その晩は一緒の朗読のステージに立たせていただいた。そのご縁から色々とつながりが生まれて、幾度もお話しをする機会をいただく様になった。ある時は、お宅にお邪魔しようと思い、阿佐ヶ谷の駅から道に迷ってしまい、慌てて交番を見つけて谷川さんの住所を尋ねたが、あっさりと断られてしまった(当たり前だ)。その前まで、ご本人に迎えに来ていただいたことがあった。彼はどうか分からないが、私にとってはとても良い思い出となった。

これは谷川さんに限ったことではないが作者にお会いすると、その息づかいやたたずまいが作品を読んでいる時にふと隣に感じられてくるようなことがあるものだ。つい先日もお邪魔をして、対談の機会を持たせていただいたが、とても元気そうなご様子で、旺盛な執筆を続けているお姿が良く分かった。優しい面持ちの中に凜とした呼吸がいつも感じられて、独特の緊張感にいつも私は包まれるのであるが、年を重ねられてますます詩心の潔さが増している感じを受ける。

「自選 谷川俊太郎詩集」の特筆すべきところは、何よりも自分で自作を選んでいるという点にある。まえがきでこんなふうに語られている。

「世間ではさほど評価されていないが、自分では気に入っている作がある。反対にたとえば教科書に採用されたりしているが、自分ではどこか不満を感じている作もある。自選の場合でも、目は自分自身よりも読者のほうに向けているつもりだが」

これは私も実作者として良く分かる。言わば詩を書くこととは、このこととの見つめ合いなのかもしれない。ツイッターに詩を書くということをずっと続けてきて、「ツイッター詩人」などと呼ばれることも時にあるのだが、それを通しての一番の発見とは、自分で気に入っているものが出来たとしてもほとんど反応が感じられなかったり、反対に意外なものにリツイートやメッセージが数多く見受けられたりする。

これこそは言葉のキャッチボールなのだとするならば、そのただなかにこそ詩とはあるべきものなのかもしれない。なかなか近寄りがたい印象があるのが現代詩の世界だが、戦後からずっと独自の道を切り開き、たくさんの読者を獲得している谷川さんは、ずっと「目は自分自身よりも読者のほうに向けている」ことを貫いてきたのだろう。その〈目〉とはどのようなものだったのか。「自選」という行為が、どこかはっきりとそれを教えてくれている気がする。

読み進めているうちに、そのまま彼の〈呼吸〉がはっきりと伝わってくるようだ。いくつも出ている他のアンソロジーとはどこか根本的に異なる何かが分かってくる。谷川さんはいつも「詩とは自分の中の無意識が書く」と語る。「どんなふうに一篇が書き終わるか、書き始めてから最後まで分からない」とも。そのような筆先で書き上げたものがここには多く収められているように思う。「悲しみは/むきかけのりんご/比喩ではなく/詩ではなく/ただそこに在る」(「悲しみは」より)。

先輩のニセモノを通して谷川さんの世界に初めて出会った私だったが、言わば本人の眼を通して今度はその内側の他人のようなものと向き合っている気持ちにとらわれてくる。

そこに彼の書く〈無意識〉の秘密が大きく深く横たわっているように見える。

街へと出かけていって、どこかの座席でこつこつと文庫本を開いている青年を探してみたい。