「戸惑う窓」 堀江敏幸

私は幼い頃から特に、実家の縁側の廊下が好きだった。造り酒屋をやっていた我が家は、どこか屋敷を思わせるようなたたずまいと広さがあり、廊下には子どもが遊ぶにはとても十分なスペースがあった。大人になり余裕のない毎日を暮らしていると、そこでくつろいだ時間を過ごしていた昔がいつも懐かしくなる。例えば妹とおもちゃ箱をひっくり返して遊んだり、絵本や図鑑などを静かにめくっていたりしたものだった。

朝や昼間はそこに差し込む日射しを味わうのが好きだった。夕方は刻々と変わっていく空の色に目を奪われた。そして十五夜は祖母と座って、手作りのだんごを食べたりした。

夏の午後などは、突然のにわか雨の風景に襲われた。庭の地面が大きな雨粒の襲来を受けて凄まじい音をたてる。その先のリンゴ畑の木々が揺れる。雨の飛沫が廊下をぬらすので、窓を閉める。すぐに稲光。

大きな窓があったから、いつもこのような天気や時間の変転の時を過ごすことが出来たのだろう。このような窓の恩恵が、心に自然の本当を教えてくれていたような気がする。
これらのことは、こうして考えてみると、「窓」の外に居ては分からないことではないのかと思う。窓の内にいるからこそある距離を置いて〈自然の本当〉を知ることが出来たのだろう。たった一枚だけの外と内との透明な隔たり…、そこに気持ちはいつも吸い寄せられていったのだ。

「窓」をめぐっている魅力的な本と出会った。堀江敏幸の「戸惑う窓」(中央公論新社 円)。「部屋のなかにいて窓から外を見るときの、微動と静止、弛緩と硬直が交互に襲ってくるような感覚は、いったいどこから降りてくるのだろう」。

日常の風景の繊細さを、言葉の網を丁寧に張ってすくいとろうとするかのように記しているその書きぶりについ見とれてしまう。「風景を味わうのではなく、窓の前にいることじたいを味わっているような気がしてくるのだ」。

窓の前にたたずむ細かい作家の視点の動きをずっとたどりながら、それを読んでいる私たちにもまた「前にいることじたい」を強く感じ続けている時間が与えられている。窓の前で様々なことを思い浮かべる自分の心そのものをとらえて、言葉の鏡のようなものにそれを映し出そうとしている堀江の心の姿を思わせる。

いつもその時にその場で目にとまった「窓」の話題をきっかけとして、文学、美術、音楽、旅といったものに自在に語りを行き来させている。それぞれの一編に巧みな構成がある。それがあるからこそ一つ一つは長目のエッセイだが、一気に読ませられてしまう。

「窓について考えるたびに私は戸惑う。それどころか、とまどう、という音の中に「まど」の響きを聞いてしまうのだ」。これがこの本のタイトルの理由を語る一文であるのだろう。例えばボナール、アンドリュー・ワイエス、正宗得三郎、大岡信、ノートルダム寺院の建築…など、多数の芸術作品の鑑賞をする心に浮かぶ戸惑いこそがそのまま、自分の感性を押し開いて、外の世界へと通じ合わせてくれるきっかけを彼にもたらそうとしてきたのが分かる。考えること・感じることの新鮮さはこのような〈戸惑い〉と不可分なのだと分かった。それを漏らさずに描こうとしているからこそ、彼の文章の顔には青年の瑞々しさがあるのだ。

「窓ガラスの向こうを眺める人々の姿は、壁に掛けられた絵画の前にたたずんでいる人々のそれによく似ている。内と外のどちらに身をおいても、私たちは窓の不思議な力に抗うことはできない」。

堀江はこのようにその都度、「前にいることじたい」に視点を戻そうとする。「窓」というよりもその人影がそれぞれに描いている心象こそをのぞきこんでみたいとでも言いたいかのようだ。

「この枠を介してなにを想像し、何を得るかは個々の自由であり、特定の味わい方を押し付けられるようなことはあってはならない」。

これも絵画鑑賞と同じことであるだろう。しかしそこに何か私たちの暗黙のルールというものを気にしている。「それでも往々にして、窓という絵画の前に立つ人々の反応に自分も合わせなければ失礼にあたるのではないかと不安になることもある」。

こうして考えてみると、私たちは窓を眺めながら別の視点に気づかされているのだろう。ここに書かれてあるような、窓を前にしている自分の姿を無意識のうちに感じさせられてしまっているという感覚である。言わば、見る/見られる…、を同時に一つの時間の中で起こしていることは、これはどこかいわば演劇空間のようなものと似ているともいえるのかもしれない。

そこには窓の前の他者の行動や素振りと重ね合わせなくてはならない、ある心の時間が要されていくのだろう。私たちに様々な方向からの視線を感じ取らせてくれる何かが「窓」にはある。それは空間に一人で佇んでいる場合も同様なのかもしれない。

私は幼いころ、庭の自然世界から、見つめられていたのかもしれない。

「特殊なのは、文字で描かれた窓である」。これも堀江ならではの面白い言い方である。つまりは本の記述の中に描かれている様々な「窓」を指している。「建築素材などひとつも使わずに造られた平面の窓に出会い、そこから覗いている世界の断片に魅せられたまま、受け止めた感慨を人に差し出したくなる瞬間が私にもある」。いわば想像をも、あるいはそれこその何かをも「窓」と呼んでいる。

そのような感性の覚醒の感触でもって「人に差し出したくなる瞬間」を堀江は繊細にとらえようとしている。ここで言う「受け止めた感慨」とはむしろそのことを私たちに起こさせる心への共鳴が前提であると感じられる。書物の中に登場する「窓」とはたった一人の読者の視点の先にありながら、無数の読み手のものを想像している先のものでもあり、その感慨を差し出すこととは、言わば「見る/見られる」の感覚そのものを手渡すことになる。

「窓」を開く、本を開く。このことはここでは同じ意味を語ることになる。私たちは本を手にしながら、「見る/見られる」という間の時の温度を感じたいのかもしれない。