「津波の墓標」 石井光太

余震が来る度に不安になったり、原発関連の報道に追いかけられたり、食べ物と水とガソリンを得るために並んだり…。この季節になると鮮明な記憶がやって来る。

特にテレビから流れてくる津波の映像に、たくさんの命と暮らしとが奪われてしまったことを繰り返し教えられているようで、その光景の恐ろしさに震えた日々がよみがえる。 石井光太の新刊のルポタージュである「津波の墓標」(徳間書店)を読み、思いを馳せる。岩手県釜石市の遺体安置所で繰り広げられた光景を描き、この度映画化されることになった著書「遺体」の後の本書の成り立ちを、初めにこのように語っている。

「私はあの本で書き記すことのできなかった人々や出来事を頻繁に思い出すようになった。様々な理由から筆を執ることができなかったことが今になって脳裏に蘇ってきて、書き残してくれ、と訴えているように思えたのだ」。

私も福島県内で被災者をインタビュー取材して歩いた。二冊の本にまとめたが、収めきれなかったものがたくさんある。それらが時折に心に影を落としてくることが今もよくある。気がとても苦しくなる。

「壊滅した街へ」「遺体を捜して」「避難者たち」「身元不明者の墓標」などの章立てに分かれている。読み進めていくと、石井の書き尽くせなかったことが順に浮かびあがってきて、一つひとつの事実として絡み合っていくかのように感じられる。「ありのままに書き綴ることで複雑さと重さと生々しさをそのままつたえたい」と述べているが、これらが並べられて〈記憶〉の厚みのようなものとなっている。

娘と孫の遺体を探している老夫婦の場面がある。夫は石井に「遺体がひどく傷まないうちに見つけ出してあげたいのですが」、と。すると妻は隣で「そんなに簡単にあきらめないで」「どこかで生きていたらどうするんですか」と気弱に言う。「あの子たちのためにも遺体を捜し出してあげなければならない」と夫が叱る。この夫婦はいつもこうしたやりとりをしているのだろう。

そういえば、避難先から今も毎週のように福島の海にやって来て、幼い子どもの姿を探している若い夫婦の話を、この間も聞いたばかりだ。私の知人は行方不明のままであり、ご両親はどこかできちんと区切りをしなくてはならないと住職にさとされて、砂を持ち帰って葬儀をしたとおうかがいした。仮設住宅で絶対に死にたくないといっていた母が亡くなりましたという便りを、つい先日にいただいた…。

春がめぐってくるのに、切ない思いばかりが去来するが、それでもめぐる季節を受けとめなくてならないのだと本を閉じて、ため息をつく。

春風が吹くと呼び覚まされる震災の当時の細部。それは心よりももっと違う何かにはっきりと刻印されているかのようだ。これが阪神淡路大震災を経験した方からかつて聞いた「骨が記憶している」ということなのかもしれない。

石井の筆には風化と抗しようとする力が強くある。様々な取材場面での事実の芯のようなものが、彼を突き動かしていることが分かる。

私が取材に出かけて話を聞いたNさんのお話しを、本を開きながら幾度か思い出した。

震災当時に南相馬市の鹿島区の消防団の団長を務められていた方である。団員が二百数十人ほどいた組織であったが、第一号機の水素爆発が一二日の午後三時三〇分過ぎにあり、それからみるみるうちにみな避難を始めていった。そしてご自身を含めて六〇歳から七〇歳の十数人しか残らなかったそうである。

残った自分たちだけでやろうと懸命になって海辺の捜索活動にあたった。いくつかの体験を詳しく語ってくれた。鹿島区には野球場があるが、そこをみんなで探している時の話をしてくれた。津波を受けて四・五日後の話である。

広いグランドと駐車場に、津波の後の、小さな池や沼のようなものがいくつか出来上がっていた。そこにたくさんの遺体があった。まずは浜辺まで様子を見に行こうとして、そこを通り過ぎた時に、不意に「助けて」という女性のかすかな声が耳に入って来た。たくさんの亡くなった方々の姿の中に存命の方がいる。何日も経っているこの寒々とした広場のどこかにいるはずだ。耳を澄ますと、また声がした。必死になって探すと、ある一つの水たまりの先で、息もたえだえの女性が見つかった。その方を急いで救助して病院へと搬送して、やがて回復をして元気に退院をしていったそうである。

Nさんは私の顔をじっと見つめてこう言った。「人はそう簡単には死なない」。雨やみぞれが降った厳しい三月の空の下で、水に浸かりながらも、それでも生きていた人がいたのだから…、と。

別のお話しが頭をめぐった。例えばここから二十キロほど先の、原発の煙突が見える浪江町請戸港付近は、爆発後にすぐに立ち入り禁止区域となった。消防団や警察、自衛隊などの救助隊も入れなくなってしまった。海辺には、津波に巻き込まれて浜に打ち上げられたり、海からなんとか自力で這い上がって来た方々が数多くいらっしっゃたと何人かの方々から聞いたことがあった。その話をした。Nさんは断言した。「その女性を救助したから分かる。間違いなく、命があって助かった人はいたはずだ」。

宮城県で消防士として働いている兄のことを想って書いた詩と出会った。震災当時のその姿を思い返して書かれている。名取市にお住まいの藍原史佳さんの作品である。一節だけ紹介をしたい。「兄さんは救う人だ。それはわたしを。/兄さんは救う人だ。それは家族を。/兄さんは救う人だ。誰より先に、市民を。/でも兄さんはあの日からずっと探す人となった」

どれくらい兄さんは探したんだろう
どれくらい兄さんは泣いたんだろう
とても優しい人だから
とても穏やかな人だから
理不尽な死を見つめることはどんな事だろう

助かった、あるいは助からなかった…。そして浜辺を探しながらこんなふうに涙を流し続けた方がたくさんいらっしゃったことをあらためて思った。今もなお、探し続けている人々がいる。私の教え子は若い警察官だったが、住民の方を誘導していて波に巻き込まれてしまった。彼が最後に乗ったパトカーは今も、ひしゃげてしまっているが浜辺に置かれている。姿はまだ見つかっていない。