「温泉主義」 横尾忠則

朝早くに東京から、福島へと戻るところである。新しい東京駅の丸の内口前に降り立つ。時間がとても早いからなのか、人気のない街の表情を、新鮮に眺めてみる。

ある一つの高いビルが朝日を浴びて赤い絵の具を塗ったみたいになった。

不思議な力に満ちた野蛮な色。

あまりにも露わな朝日の紅い色を目前にして思い起こす。

横尾忠則さんのアトリエに、初めてお伺いした時のことを。

玄関先で、このドアの向こうに横尾さんがいらっしゃるんだと思い、横尾さんの絵に触発されるようにして詩を書き続けてきた私としては、緊張のあまりなかなかチャイムを押すことが出来なかったことを覚えている。

ご挨拶させていただくと、とても気さくに接して下さり、くつろいで話をすることが出来た。しかしお邪魔をしすぎたのかもしれない。対談はお昼過ぎから始まったのだが、なんと終了したのは午後8時半。

その間、横尾さんは一度もお休みにならず、語り続けていらっしゃったのであった。

エネルギーに圧倒されながら、むしろここまでの〈語り〉の力があってこそ、自分にしか描くことの出来ない未知の世界へとたどりつけるのであろうと直感した。

合間にデジタルカメラで近影の写真を何度か撮らせていただいた。

横尾さんにお見せしたところ、ある一枚に目が止まる。

こちらを見つめる横尾さんの横顔が夕陽に照らされて、真っ赤に染まっていた。

これは珍しいと興味津々。

この頬の赤い色が珍しい。ぜひ送って欲しいと頼まれた。

見れば見るほど不思議だ、西日はこのリビングにこんなに強く当たらないのだ…としきりおっしゃっていた。帰りがけにもあらためて写真について依頼を受ける。帰り道にデジカメのスクリーンを見返しながら、こういう偶然の色彩の鮮烈な閃きのようなものにセンサーを働かせるところが、画家の本能のようなものなのだろうと知った。

それからである。何かを感じ入って背筋が寒くなるような瞬間、横尾さんの顔を支配したこの朱色を、時折に頭の中に蘇えらせるようになった。

しばらくして福島へお招きした。二人でトークショーを行うこととなった。

その前日に松尾芭蕉が立ち寄った飯坂という地の、奥にある温泉の旅館の部屋で、向かい合って夕食をとった。横尾さんはとても楽しげにあれこれとお話をして下さった。私ばかりが酒杯を重ねてしまった。

絵画の話、当時泉鏡花賞を受けられたばかりの小説「ぶるうらんど」「ポルトリガトの館」のエピソード、「隠居宣言」とは何か、あるいは書評やエッセイの仕事のことなど。
初期の作品に、枕元で小さい黒い子どもが相撲を取っている場面が描かれているものがあり、私はそれが好きであることを伝えた。そして私も幼い頃に、夜中に真っ黒な子どもが家の中を遊んでいるのを見たことがあると話した。

そこからしだいに見たことのある超常現象や宇宙人や、不思議な夢の話へと進んだ。

例えば横尾さんが、ある旅先のホテルで遭遇した宇宙人は、部屋に入ると直立不動で横尾さんを見つめていたそうである。

特筆すべきは足がベッドを突き抜けていたことであった。侵入者の彼はベッドの下の床から立ち上がってたたずんでいた。ふともものあたりから全身を横尾さんは確認できたのだそうである。それが奇妙でおかしかったとのこと。

横尾さんも私も時に腹を抱えて笑ってしまいながら、止まらず話は続いた。

隣の宮城県の秋保温泉の宿では、伊達政宗の夢を見たそうである。

川べりを歩いていると、無効から黒い馬と武者が現れた。馬はほんの数センチ、川から浮かびながらこちらへ駆けてきた。

横尾さんの前で急停止。

水しぶきをかけられながら、彼は思わず叫んだ。

「誰なのだ、おまえは」。

刀をびゅっと振り、男は構えて一言。

「伊達正宗じゃ」。

ちなみに横尾さんは歴史そのものがあまり好きではなく、政宗がどのような武将であったか、今まで興味がなかったそうである。東北・宮城の覇者であったこともあまり知らなかったそうだ。

翌朝、女将さんに何気なく話したところ、ここの宿はよく正宗が湯治に来ていたことを聞く。横尾さんはさっそく、その風景を描いたそうである。

このことについては、「温泉主義」という本などにも書いてあるとおっしゃっていた。それがずっと頭にあった。しばらく経ってからその本を書店で見つけることが出来た。家に戻り、原稿を書く前に書斎で読み始めたら止められなくなった。

北から南までの各地の温泉をめぐっての、彼なりの独特の語り口と絵でつづる、独特の湯けむり紀行である。温泉から戻ってきて絵筆を握る…。その作品も合わせて紹介されてあり、一つ一つの世界がとても深まっている。

秋保の話しと伊達政宗の絵をすぐに見つけた。

黒い武者が居た。

兜には三日月という有名ないでたちも横尾さんは知らなかったそうである。

しかし侍の頭上には細長い月が飾られている、と夢で分かったそうだ。

闇に立つ、黒い馬と武士。霊気。

ほどなくして、一枚に見とれている部屋の窓に、雨が降ってきた。

寒くなってきた。横尾さんの頬を染めていた〈紅色〉が思い浮かんだ。

黒い色を見て、なぜに私は、赤を想ったのか。

彼のとらえる色彩はこの世界の夢うつつを、このように親しく混ぜ合わせていくようにしていきながら、いまここに生きて在ることを鮮やかにする。