「レキシントンの幽霊」 村上春樹

何度か読み返してしまう本がある。私にとって好きな詩集などは大体そうである。そもそも優れた詩歌作品というものには、絵や音楽を何度も味わい直すことができることと同じように、いつも変わらない新鮮さのようなものが備わっている。しかし小説はあまりそういうことが私はない。一度読み終えてしまった物語を開くことはそんなに多くはない。

しかし例えば村上春樹の作品は必ず何度か読んでしまう。言わば彼の文章の肌触りのようなものに触れたくなり、読んだのにまたしばらくしてから開いてしまうことが多い。自分の文体を持つことが作家の第一の条件であると村上はある対談で語っていたが、手に取りながらそれにこよなく惹かれているのだと分かる。響いてくる村上の文章の内側のリズムのようなものをまずは求めたくて本の扉を開くのである。

最近ではノーベル賞候補にあげられることもあり、話題性に事欠かない。東京のいくつかのカフェではファンが「待ち会」を開き、知らせを聞いてがっかりしている様子がニュースで映されていたのをリアルタイムで見たことがあるが、彼らと同じ気持ちだと共感した覚えがある。

本稿を書くに当たって、最も多く読み返す村上作品は何だろうと考えてみる。紙幅があるから短い作品にしよう。あれかこれかと思いをめぐらせながら、それは「レキシントンの幽霊」であると思った。

主人公の僕は作家であり、作品を通して知り合った男性、ケイシーと仲良くなる。いつも遊びに出かけている、レキシントンにある彼の家の留守をしばらく頼まれる。立派な三階建ての古くて大きな屋敷。そこにはケイシーがその父から譲り受けた、古いジャズ・レコードの見事なコレクションがあり、そこにたまらなく惹かれる僕は喜んでそのことを引き受ける。

ケイシーがロンドンへと出かけて、誰も居なくなった家でくつろぎながら仕事をしたり、用意をしてくれたワインを味わったりしながら、僕はゆっくりと執筆の仕事をして過ごしす。そして夜も十一時を過ぎて、二階の客用の寝室に行き、気持ちよくベッドに入る。

「眼が覚めたとき、空白の中にいた」。一時過ぎごろ、彼はふと目覚める。「そのあとでようやく、それに気がついた。音だ。海岸の波の音のようなざわめき」。そしてはっきりと気づく。「誰かが下にいる」。このところで私は文章の流れは何度も触れているからほとんど分かっているはずなのに、寒気を覚えてしまうのだ。

階下の誰もいないはずの大きな部屋で、人々が集まっている。シャンパン・グラスやワイン・グラスがふれ合う、ちりんちりんというかろやかな音、革靴のリズミカルな床を踏む音、聞き覚えのあるような音楽…。「あれは幽霊なんだ」「談笑しているのは現実の人々ではないのだ」。

私はかつて同じように、ある大きな屋敷に一人で泊まることになったことがある。初めは他にも誰かと同宿するものとばかり思っていたのだが、予定が変わったらしい。広大な敷地のホテルのような所に投宿。私はこのような状況がとても苦手であることを思い出した。宿まで送ってきてくれた知人をなんとか引き止めたかったのだが、結局はすぐに一人だけになってしまった。

私は一人きりになったとたん、とっさにこの小説を思い返した。この「僕」のことをいつも読み返しては想像しているのに、夜の建物の恐ろしさは思わなかった。ここに書かれてあるように広い屋敷で、しばらくの間、思い思いに執筆の仕事をしたり、ジャズを聴いたりしながら過ごすとは、なんと贅沢な身の上なのだろうといつもまず思うのだが、しかしこのような一人の夜の怖さは、想像を超えるものがあった。

こういう時に決まってなのかもしれないが、強い風の音を感じた。建物中の電気を全て点けようかと思ったが、それを探り当てるために暗い建物の内部のあちこちを歩き回るのも、考えただけでぞっとする。なぜだか二階が客室になっているのも、この小説そっくりだ。階段を下りて一階の浴室に行こうと思ったが、踊り場の絵に描かれている異国の人物に睨まれてしまい、開けたドアを閉めた。

とりあえずは部屋中の電気を点けて布団に入り、テレビの音量を大きめにしながら、この物語の「僕」のことを考えた。もしここで同じように誰かの気配を感じたら、私はどうするだろうか。「僕」はとりあえず確かめるために階下へ行き、その後にこのパーティーに乱入しようと試みるのだが、招待も受けていないから…、と止めにして部屋へと戻り、夜明けまでこれらの物音と付き合い、やがて眠ってしまうのである。

このような畏怖すべき存在があるただなかで、やがて寝入ってしまうことはできるものなのだろうか。この出来事はこの最初の夜の一回きりであり、後は本当に静かな日々を過ごしたそうなのである。私は「僕」のような心持ちはきっとなれずに、とりあえずはすぐに逃げ出してしまうだろう。けれど彼はその後も、平然とこの屋敷で過ごした。そしてまた、このことをロンドンの仕事から戻ってきたケイシーに、全く報告していないのである。

臆病者の私にとっては、一つも「僕」の行動に共感出来ないはずである。しかしその反面、どこかとても良く分かると思ってしまうのは、ある一つの経験が心にあるからである。
これは少年時代にさかのぼる。福島の方言で「おっかながり」という言葉がある。恐がりという意味だ。実家は代々造り酒屋をしていたところで、やはりたたずまいは大きな家だった。トイレは家族の寝室のいささか遠くにあった。夜中のトイレがいつも恐くて、母や祖母を起こしては一緒に行ってもらったりしていたのだった。

私はいつものように恐る恐る暗闇を、母と歩いた。すると途中の部屋に、小さな人影を見た。暗闇よりも、もっと黒い影だった。それがとても可愛らしい姿だと分かった。私はその姿を見つめていたが、私の心は全く驚かないのだ。目を見張るほど、その子の姿の黒さがはっきりと見える。楽しそうに遊んでいるように見えた。じっとしている私は母にうながされて部屋に戻った。

そのままぐっすりと眠った。翌日に祖母にすぐにこの話をした。「座敷わらし」かもしれないな、と一言。いいことあるかもしれないよ。

祖母がつぶやいた「いいこと」とは、静かな気持ちを経験できたことなのだと今も思っている。オッカナガリの私が、本当に自然にそれを受けとめることが出来たのだ。この小説には、私のその時の静けさが全体に宿っている気がする。

私はかつて同じ経験をしたことがある。