詩人小説精華集(彩流社)/ 長山靖生(編)

 詩人の書いた小説。その面白みをまとめて味わうことが出来た。フランスの詩人のポール・ヴァレリーは「散文は歩行であり、詩は舞踏である」と語った。初めはその境界を意識して読み始めていたが、すぐに忘れて、すっかりと夢中になってしまった。

 編者の長山靖夫は「優美・幻想・哀切・ユーモアを通して表現された生活と思索の諸相の表現」とあとがきで述べている。収められている作品は言わば、近代詩人たちの「生活と思索」の鏡であり、資料としても貴重なものである。

 上田敏、北原白秋、山村暮鳥、木埜下杢太郎、石川啄木、左川ちか…など、明治から昭和の初めにかけて日本の文壇に自由詩や歌の世界を颯爽ともたらした、書き手たちの足取りを思わせてくれる。

 時にはそのまま軽やかな舞踏のステップを感じさせてくれたり、詩歌には向けることのない新しい表情を見せてくれたりもする。散文の息で歩いてみることでなお、詩作への思考・思想を彼らは重ねていったに違いない。なるほど、小説と詩とは永遠の兄弟であり、なおかつライバルなのかもしれない。個人的には中原中也と萩原朔太郎と高村光太郎の三者の個性が出ている様で、心が惹かれた。

 中也は「私の頭の中はもはや無一文だ」というあるフレーズが象徴するように見えない心をずっと記録していこうとする。朔太郎は「猫町」と称した不思議な時空間に忍び寄る心の幻影を精緻に眼差して言葉で追いかけていく。光太郎は歌舞伎役者の九代目市川団十郎の顔を彫りたいが見つめるほどに出来なくなるという、彫刻家としての焦燥感をしきりに語っている。

 こんなふうに可視と不可視にこだわる姿にそれぞれの詩人の真顔が見えてきた気がした。長山は「時代を正確に描き出しているばかりではなく予言的ですらある」と続けて記している。小説を書く意味が、それぞれの詩歌人たちにはっきりとあったのだろう。

 明治から昭和の歳月の匂いが鮮やかに行間に匂ってくるばかりではない。放たれた言葉の矢は現代の暮らしの的を射抜いている。

(初出 産経新聞 文化欄)

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2018.01.22更新