菊の枯れた庭に二月の空が光る
三月が近づいてくると東日本大震災の記憶がよみがえる。天気や風の感覚が日々の記憶を思い起こさせる。吉田博子の新詩集「母樹」を開く。命の切なさを感じる。例えば片方の翅が少しちぎれた、弱った様子の揚羽蝶が朝の庭に舞い降りてくる場面がある。
今は逝かないでくれ
おまえの故郷、卵を産みつけられた枸橘の葉がすぐそこだから
死にそうになった時
還ってきたのか
それでも私の目の先で
今は倒れ逝かないでくれ
わたしの心が弱く折れている今
死んでゆく姿をみせないでくれ
ある日に不幸な死を遂げた妹。彼女を偲び、蝶の姿と重ねて眼の前の一つの死と向き合っている。切実な叫びとも思えるような生の声が聞こえた。死の寂しさの深さと重たさが、日常の一抹から伝わってくる。それでも死は沈黙したままの季節の中で、小さな虫にもやがて訪れる。
これは亡き母を想って、樹木を見上げている詩である。木は母、落葉はその子どもたち。
いく枚もの落ちていった葉たちの
父や母を慕う声が
詩へと昇華してゆく
わたしは生きている
たとえ身体は土の養分となって変化しても
魂となって
風や霧や雪となって生き続ける
わたしという個が生きていた証
詩をいつまでもくちずさもう
何気ない言葉の語り口に、見えない「魂」となり生き続けようする小さな影が宿っている。津波で我が子を亡くした親たちが、「生きていた証」の何かを心の支えにしている必死な姿を、この六年の間に数多く目の当たりにしてきた。その後の日々が浮かぶ。
姉や子としての詩の隣に、母親としての詩も並ぶ。こちらは娘との日常の暮らしが明るく平明に綴られている。
今日は祭日じゃったけえ
あんた働いてきたん? と娘に電話で聞くと
まぁ にょろっと働いてきたわ と言う
おもしれぇこと言うなあ
ほんまにあんたにゃああきれるわ
にょろっとか まさか だらっとじゃあ
なかろうなぁ
あんた ほんまに しっかりせにゃあいけんで
一児の母なんじゃけん
などと続けている。あるいは祖母としての詩もある。一枚の芙蓉の葉の幼虫を孫に見立てて「葉っぱにむしゃぶりついているんだよ/生きるだけ生きたらええがな」と。子であり姉であった記憶、そして母であり祖母である現在。これが心の中でやがて一つの母なる木のイメージとなり、枝と葉の慈愛を優しく揺らせてゆく。いつもしっかりと立って、ゆるがない。影の確かさはあの津波を受けても残った一本の松の姿を、詩集を閉じた私に静かに与えてくれた。
尾形亀之助のアンソロジー「美しい街」(夏葉社)。静かな呼吸が聞こえてくる装丁と挿画(松本俊介)である。病気がちだった尾形の詩には、日々こそが愛おしいというメッセージがある。太鼓の音が路地から聞こえる。
眼を覚ました子供が可哀そうなので一緒に縁側に出て列らんだ
菊の枯れた庭に二月の空が光る
子どもは私の袖につかまっている
(初出「毎日新聞」詩の時評「詩の橋を渡って」2017年 2月)
*現在も「毎日新聞」にて時評連載中です