「人生の塩」 フランソワーズ・エリチエ

いつもゆとりを楽しんで生きていきたいと思うのだけれど、どうしてもそのような気持ちになることができない。

あれこれと雑事や情報に追われてしまって、ゆっくりと何かを考える暇がない。だけど矛盾を自分ながら感じてしまうのは、そのような自分の毎日の状態であるにも関わらず、詩や文章を書くときには〈ゆとり〉こそが生きる上で最も必要なことであると、ともすると言いたくなってしまうことにある。

一番余裕のない人間が、それを伝え続けるにはどうすればいいのか。

私はある日、一つのことに気づく。

そのような〈ゆとり〉を人々に訴えている数多くの本から、とにかくその味わいを学ぶことにすればいいのだ。

必死に探し始める。〈ゆとり〉を必死に…、ここですでにどこか矛盾がはらまれている気がする。だがしかし、何もせずに一つの人生の真理を得ようとすることは、あまりにもムシの良いことである。努力せよ。

そのようなわけで本屋へと〈ゆとり〉の文献を探しにおもむく。

それにしても人生についてあれこれと考えることと、本を手にすることとは、とても良く似ている。

一冊ごとにその書き手の人生が垣間見える。書物を刊行するということは大変な時間と労力がかかる。だから書店にあるもののほとんどは、その人の人生が託されていると言って良い。

そんなことをあらためてであるが納得しながら出会いを求めてウロウロ…。

ある日の閉店間際。蛍の光が聞こえてきたが、手は〈ゆとり〉の教科書を探して、どんどん伸びてゆく。

フランスで三〇万部のベストセラーとなった、フランソワーズ・エリチエのエッセイ集「人生の塩」(明石書店)を手にした。

まずタイトルに心が引きつけられた。

「あなたは毎日、人生に豊かな味わいを与えてくれる『人生の塩』をないがしろにして生きておられる」。

人類学者としてフランスでとても著名な筆者が、本の中で示そうとする、これら生きるために必要な〈塩〉とは何か。本書には、長い独り言のつぶやきのような、断続的に浮かんでくる言葉や想いがひたすらに列挙されている。

「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば」という出だしで始まる吉田兼好の名作「徒然草」は、心に現われてくるつまらないことを毎日のようにただ紙に向かって書き続けていくうちに…と初めのことわりがあることは、あまりにも有名な話だ。

そうすることで様々な人生へのまなざしに満ちた随想の作品がやがて生まれていく様子がうかがえるのだが、この筆者の頭の中の〈よしなしごと〉も、例えばこんなふうに続いている。

「ピスタチオやカシューナッツを続けざまに食べる、角砂糖を隣の人のコーヒーにひたして食べる、カップの底に残っている甘いムースをスプーンですくって食べる、熱帯の小灌木地帯で野生のミツバチの群れの攻撃から命からがら生還する」…。「不幸から目をそむけない、友情をひとつの約束と考える、仕事に精を出している蟻の群れの観察に没頭する、草原を歩いてイナゴの群れを飛び立たせる、赤毛りすの巣の在り処を知る、庭の鉄格子の門の大鍵をもっている」…。

このような記述が、大半を占めている。あたかも一日の何気ない行為の要素のようなものが細かくリストアップされているかのようだ。

あくまでも個人的な雑記を夢中で読み耽るのがしかし、しだいに楽しくなっているのが分かる。

心の中を覗き見している感覚。

「本書の中に人生への賛歌とも言える一種の散文詩を読み取ってほしい」とはじめに語られている。なるほど。不思議な余韻に満たされてくることに気づく。ささやかな日常の〈味わい〉に目を注ぎ続けることが、意味ある〈人生〉の調味料を見つける手立てになることを知った。

例えば俳人はそこを巧妙にとらえるが、彼女のまなざしはそれと良く似ている。

ここで特別にまとめられている「日本の読者へ」という冒頭に掲載されている文章に触れる。最初の一文はこのようなものである。

「俳句の技法に通じてそれを実践し、清少納言の『枕草子』を愛読する読者は、本書に大いに親近感を抱きつつも、文化の違いを感じるのではないだろうか」。

「俳句」と「枕草子」が登場しているのであるが、句作と随想…、つまりは日々の瞬間を書きとめる行為のことを指しているのだろう。

知人の心理学者からある時に、鬱に悩んでいる人に一種のセラピーとして、俳句を作ることを勧めることが良くあるのだと知らされた経験がある。

その季節、その日時、その瞬間を生きていることを確認できた時に、今を生きている実感がもたらされるというのだ。

なるほど。何だかそうした日々の手触りの確かさのような失われてしまうと、心はしだいに塞がっていくのである。

ところで、ここで述べられている「文化の違い」であるが、羅列して描かれている風景や事象が、フランスか北アフリカ諸国のものだということについてであると説明している。

そして「日本の読者にとって魅力が感じられるとすれば、それはおそらく、普遍的な知覚と、夢や想像の扉を開く未知の音の響きや喚起されたイメージとの遭遇から生まれるものである」と。

なるほど。ここにおける「イメージとの遭遇」というものが、詩の味わいを生んでいることに気づかされる。

「こうした些細な何でもないもの、それらはあなたが、私が日々生きているものである」と最後にまとめている。

この「些細な何でもないもの」という言葉に、今度は短歌の話となるのだが、歌人の穂村弘さんがある時に語ってくれた彼の作歌の心得の一つを思い出していた。

それは日々の小さなものにこそ、リアリティが宿っているという話であった。例えば公園のベンチに梅干しの種子が落ちていたとすれば、その風景をそれに託すようにして歌を詠むという…。

そのほうが、その場の現実感がイキイキと生まれてくると語ってくれたのだった。公園やベンチの風景を見たままに描くよりも、効果を感じる…と。

日々に〈ゆとり〉を持てないのは何故なのか。

こうした「些細な何でもないもの」を見過ごしてしまうしかないと思っている心のそこに、どうやら理由があるようである。

よし「些細」を探すぞ。

〈ゆとり〉のために、血眼になって!