「千の名を呼べば」 新川和江

好きな人を想うこと。

古来、万葉集の頃より日本人はずっとそれを歌に詠んできた。しかし今日までの長い道のりの途中で、どこか詩人自体が自ら手放してきてしまった感じがある。

例えば短歌であるのなら、真っ先に「サラダ記念日」の俵万智さんが思い浮かぶのだけれど、それに対して、今を生きる詩人はというと、すぐには浮かばない。

谷川俊太郎さんにいくつか好きな詩がある。吉野弘さんの有名な「祝婚歌」もそこに加えたいが、それは結婚というゴールにたどりついた詩で、一つの恋愛達成と見るか、それを新たなスタートと考えるか…。ふむふむ。

黒田三郎という詩人はそもそも恋愛詩は難しいと語った。

初恋や失恋など誰にも共通の経験がそこにある。そうして考えてみれば、万人の共感がそこになければ成立しないと語った。これも納得の考え方だ。初めての恋にしろ、それを失うにしろ、焦がれる想いの形は人みな同じかもしれない。

見えないものや声に出来ないものを言葉にしていくのが詩であるのなら、これらのことを書くには分かりやすさがある故の難しさと向き合うことになるのかもしれない。

だからといって、詩人たちはひるんでいたわけではなかった。現代詩の祖先である近代詩にそれを求めてみるならば高村光太郎の「智恵子抄」や島崎藤村の「若菜集」など、確かな足跡は残されてきているのだが、やがて敗戦を経験して後に、その意味を問い続ける戦後詩が詩の世界の主流となり、どこか恋愛詩というものはその影に隠れ、少数派になってしまった。

それが残念だと詩人の新川和江さんがある時に私におっしゃっていたことがある。新川さんが長年にわたり書き続けてきた恋愛詩のアンソロジー「千度呼べば」を開こう。

この一冊に古来から脈々と受け継がれている「好きな人を想うこと」の確かさを感じて、心に光を覚えるだろう。

新川さんの長年の詩の仕事の表情には、美しい女性のきらめきがあり、優しく気丈な母親の歌があり、時には日本社会を憂う思想家の宣言があり、天と地を見つめるナチュラリストの呟きがあり…。

それらを通じていつも溌剌としたものを私たちに与えてくれるのは、一つの方法にこだわらずに様々な道から、詩の高い丘を目指そうとしてこられたからに他ならない。いろんな可能性の引き出しを、その長い詩業の中で詩人として開きつづけてきた印象がある。

そしていつもその底に大切にしまわれているのは、愛の概念だ。

詩集を開くとまず「名前」というキーワードがよく登場することに気づく。

「木や風は/どうしてわかってくれないのでしょう/みち潮の海みたいに/こころは その名でいっぱいなことを」(「その名でいっぱい」)。「のこっている/三つのつぼみ/早く お咲き/あのひとの名を/おしえて/あげる」(「おしえてあげる」)など、これらの詩句には自然との心の対話が見受けられる。

「「好きなの」/ひとりでに漏れてしまったつぶやきを/聞かれてしまった/花瓶のポピーに」(「聞かれてしまった」)。

恋をする秘めやかさがそこにはいつも描かれている。

天然の木や風や花に向けられているのは内なる熱い想いであり、ふと漏らされる名や好きという呟きは、若々しい内心を解き放とうとし、心の底に新鮮な自由を与えて止まない。愛することは生きることだというみずみずしい謳歌が、どこからともなく聞こえてくるかのようだ。

読みふけっていて、心に炎が灯されてくる。恋い焦がれるとは情熱の火を高めることだ。しかしそれは、やがて報われて成就する時のためばかりではない。

悲しい恋にも同じくそれはある。いくつか描かれている作品の中で私は特にこの詩に惹かれた。「火よ/あのひとからの手紙を全部 預けます/わたしには 蔵うところがないのです」(「あのひとからの手紙を」)。

たくさんの便箋が眼前で十年程の歳月と共に燃えていく。あらゆる感情がそこでくべられていく。その中で「目が煮えてしまいそう」と語る。涙とこれまでの記憶とが流れ落ちていく。もうすぐ消えてしまうありのままの真実。最後はこのようにまとめられている。

「あのひととの恋の/唯一の承認である 火よ」。

新川さんには「火へのオード」という名詩群がある。ずっと「火」が心にもたらす意味を大切にしながら詩業を重ねてきた方であった。
だから新川さんの詩を読みふけることは、様々な真実の火をたずねることに似ている。

詩を書き始めた少女時代を振り返って新川さんは後書きで記している。「当時のわたくしにとって詩といえば、それは恋うたにほかなりませんでした」と。
しかし詩を書くことを仕事として選んでからは、ずっとそれを詩の中に潜ませてきたことも語っている。

愛しい人の名を呼ぶように言葉は紡がれ、恋愛の風景がその約束のように佇んでいることを味わいながら、新川さんがご出産された時にまつわるエッセイのいくつかの言を思い浮かべた。

「女性は本来、自然なのだ、自然そのものなのだ」。「私の中に、かぎりなく豊かな自然がひろがりはじめた」。

男性へ、そして子へ、愛しい人へ。誰かを想う心はいつも風となり、自然の美しい姿へと託され、野を川を海を空を、あらゆる世界を吹き渡ってきたのだ。大いなる命の絆の道が、新川さんの詩の筆の先にはいつもある。

実はある夜明けの焚き火を私は、あの日からずっと書斎に飾っている。

震災前。二〇一一年の元旦に撮ったものだ。辛くなる時にそれを眺めて想う。

まだ何も起きていなかった福島の時がここに静かに、燃えている。

新川さんの詩集を閉じて目をつむる。

火だ。

生きることは、火を焚くことだ。

どんな時も誰かを愛することだ…。

この野火の一葉を、新川さんにお贈りしたい。