電車乃座席日記 某月某日2
2 人生の塩について
ゆとりという言葉にはとても難しいものを感じている。
あなたはそれをどんなふうに受け止めているのだろうか。
私はゆとりを楽しんでいつも生きていきたいと思うのだけれど、どうしてもそのような気持ちになることができない。
あれこれと雑事や情報に追われてしまって、ゆっくりと何かを考える暇がない。だけど矛盾を自分ながら感じてしまうのは、そのような自分の毎日の状態であるにも関わらず、詩や文章を書くときには〈ゆとり〉こそが生きる上で最も必要なことであると、ともすると言いたくなってしまう場合が多い。
一番余裕のない人間が、それを伝え続けるにはどうすればいいのか。
フランスで三〇万部のベストセラーとなった、フランソワーズ・エリチエのエッセイ集「人生の塩」(明石書店)を手にした。
まずタイトルに心が引きつけられた。
「あなたは毎日、人生に豊かな味わいを与えてくれる『人生の塩』をないがしろにして生きておられる」。
人類学者としてフランスでとても著名な筆者が、本の中で示そうとする、これら生きるために必要な〈塩〉とは何か。本書には、長い独り言のつぶやきのような、断続的に浮かんでくる言葉や想いがひたすらに列挙されている。
「ピスタチオやカシューナッツを続けざまに食べる、角砂糖を隣の人のコーヒーにひたして食べる、カップの底に残っている甘いムースをスプーンですくって食べる、熱帯の小灌木地帯で野生のミツバチの群れの攻撃から命からがら生還する」…。
「不幸から目をそむけない、友情をひとつの約束と考える、仕事に精を出している蟻の群れの観察に没頭する、草原を歩いてイナゴの群れを飛び立たせる、赤毛りすの巣の在り処を知る、庭の鉄格子の門の大鍵をもっている」…。
このような記述が、大半を占めている。あたかも一日の何気ない行為の要素が細かくリストアップされているかのようだ。
あくまでも個人的な雑記を夢中で読み耽るのがしかし、しだいに楽しくなっているのが分かる。
心の中を覗き見している感覚がある。
「こうした些細な何でもないもの、それらはあなたが、私が日々生きているものである」と最後にまとめている。
読み終えて、あらためて考える。日々に〈人生の塩〉=〈ゆとり〉を持てないのは何故なのか。
こうした「些細な何でもないもの」を見過ごしてしまうしかないと思っている心のそこに、どうやら理由があるようである。
この作者はどこか一日中、まるで俳句でもひねり続けようとするかのような、細かなところへのまなざしをめぐらせている印象を私は勝手に抱いた。
ある時に知人の心理学者から、鬱に悩んでいる人に一種のセラピーとして、俳句を作ることを勧めることがあるのだと教えてもらったことがある。
その季節、その日時、その瞬間を生きていることをはっきりと確認できた時に、今を生きている実感がもたらされるというのだ。
なるほど。その瞬間をとらえようとする俳句を作る作業は、そうした季節や時を感じようとする最たる行為の一つなのかもしれない。
それを五七五の形式に収めることが出来た時に、生活のはっきりとした手応えがもたらされる。
そうやって心に小さな区切りを付けるようにしながら、次の何かへと向かっていこうとしているのではないだろうか。俳句やあるいは短歌(和歌)はそうやって、長い歴史の中で日本人の心に寄り添ってきたのだ。
そうした日々の手触りの確かさが失われてしまうと、心はしだいに塞がっていくのだ。
俳句や短歌などとまずは構えなくても良いと思う。
私はいつも手帳を持ち歩いて、何か思いつくと書き込むようにしている。ただそれだけでも〈日々の手触りの確かさ〉に近づくことはできると思う。
詩やエッセイの創作のアイディアは何でも書き込むようにしているが、そこにいつしか日付を付するようになった。
二三年分の手帳は書斎の机の周りに置いてあるので、すぐに引っ張り出せる。それを開くと直接に今の創作について役に立つものは、あまり見当たらなくてため息が出るのだが、面白いのはその時期の心の動きがそこから見えるような気がすることである。
言うなればこの時の心の模様のようなものが日付と共にある。どんなことをその時に感じて、詩やエッセイに反映させようと目論んだのか。
それを想像すると何だか元気が湧いてくるような気がするのだ。どうしてなのだろうか。
この当時の私は、こんなふうに刺激を集めていたことが分かる。しかしあまりにも無作為で、誰にも見せたくないものばかりだ。
しかし私に、このようなことをこれらの手帳は教えてくれる。
記録が記憶を作り出すのだ、と。
心の記録が、心の記憶を作り出している。
私の心はこんなふうに動き続けていたことを教えてくれる。励まされたような気持ちになり、心はまた創作へと向かおうとするのではないかと解釈している。
ところで、このようにこつこつと手帳に書き込みをすることを、ずっと二〇数年も続けてきたからこそ、震災から三ヶ月の間、私は毎晩のようにツイッターに詩を書き込み続けることが出来たと思っている。
全てのシステムを熟知して私はツイッターを始めたわけではなかった。
余震と放射能に脅える日々をともかくも伝えたいと思い、書きつづけたのである。
それがつまりは、インターネット上で一つ一つの詩に、日付と時間と秒数までをも記録されていくこととなった。
ツイッターとは一四〇字の枠=型の中に言葉を収めて、発信し続けるものである。
余震が続くさなかで、長い間、ずっと書きつづけることが出来たのは実は、文字の縛りがあったからであると思う。これがあったからこそ、一つ一つの目の前の辛い現実の時間に区切りをつけるようにして、地道にこつこつと毎晩のように書きつづけることが出来た。
定型とはそもそも、現在を区切り続ける力を内側に持っているものなのかもしれない。
この「人生の塩」にも、そうした力が目には見えなくても見つけることが出来ると思われる。ただ頭に思い浮かぶものを列挙するだけの行為の中に、何があるのだろうか。
そこにやはり、カメラのシャッターを間断なく切り続けるかのような、〈区切り続ける力〉の働きが私には見つけられる。フランスから訪れた書物に日本の定型文学という方法は見出せなくても、視点はそれそのものであると私には感じられる。