「ハニーズ」「静子の日常」 井上荒野

二十歳の時だ。作家井上光晴氏と初めて出会って、文学への姿勢に衝撃を受けた。井上氏の山形で開かれた創作講座(「山形文学伝習所」)へと出かけて、そのままその道を進もうと思い立って今に続いているのだから、この機会に感謝しなくてはならない。しかし実は一度しかお会いしていないのである。井上氏はこの時すでに、癌を患っていて、生い先が短いことを宣言していた。

残りの時間を、全て小説を書くことに専念すると宣言して、この講座はやがて閉じられてしまう。だからその後、お会いすることは出来なかった。それから詩や文学に没頭していく中でいつも井上氏の後姿を追いかけている。一度しかお会いしていないが私にとって彼は紛れのない先生であり、私は自分のことを数多くいた中の弟子の一人だと自負してきた。

娘さんである、作家の荒野さんとお会いする場を初めていただいた時に、先生の面影を強く感じて、またお会い出来たのだと直感して、目頭が熱くなったことを思い出す。
父との幼い時の思い出を、荒野さんからうかがったことがあった。作ってみた話を彼に聞かせると、誰もが考えつくようなラストは駄目だと、よく厳しくなじられたそうだ。それから荒野さんの作品を良く読むようになった。いつも魅せられてしまうストーリーの閉じ方の妙味は、そんな幼い頃からの鍛錬によるものだろうか。

語りはいたずらに甘くない、苦くない、結末まで分からない。

私たちは空気の変わり目と向き合って、人の間で暮らしている。その〈目〉で、少しの具合で〈空気〉は生きも死にもする。そこへの敏感なまなざしを光晴氏は幼い娘さんら語ったのではあるまいか。それを長編よりも短編に感じる。どこか光晴氏の姿を探すようにして荒野さんの作品を読みふけっていることが多い。

一つ一つがオシャレな小箱のような、軽快なステップの物語の途中で、しかしこの作家はそれを決して逃さない。見過ごしてしまう人物の心の琴線を、カジュアルな筆運びに見え隠れさせながら、むしろ読み手にたぐらせていこうとしているかのようだ。そんな印象を井上荒野の二冊の短編集「ハニーズ」と「静子の日常」からいつも受け取っている。

例えば最後の佳品が表題作を思わせる、「ハニーズ」。不倫相手の子どもを身ごもったり、夫の浮気を知り離婚を決意したり…。学生時代からの女友達四人組は、年を重ねてきてそれぞれに何かを背負っている。

定期的に集まる夕食のテーブルで、お腹の子のいきさつを深刻に打ち明けようとするが、すぐに止めて、笑い話へと〈空気〉を変えてしまう。「事実は言わない。でも、本当のことは言える」。事実と本当は別。〈言わないこと〉を胸に置いて生きていく。そう決めた彼女を、女たちはこれからも守っていくだろうと感じる。

「ダッチオーブン」や同性愛の異色の話「きっとね」などにも、〈目〉をつかもうとする手さばきは見受けられる。最後の「これから自分が一生吐き通すことになる、長い嘘のことを思った」(「ダッチオーブン」)という一文。

絶対の〈嘘〉がこれからの二人の間に横たわるからこそ、むしろ〈本当〉の気持ちのやりとりが生まれる。この作家の手の中には、夫や恋人への絶望や嫉妬などという底の深いやりきれなさを、違う出口へとさっと向けてしまうチャンネルがある。

九つの短編はみな、むしろ大人の甘味と苦味とが呼び合っていると言えるだろうか。そして終わりに近づくと窓を開けて風を入れて、鮮やかに閉じてしまう。物語の入り口と抜け口はさらに、別々の出入口と向かい合っていくかのようである。

様々な視線は生きることの扉を探り出して、しなやかに〈風〉を追い掛けている。楽しく読み終わると思うのだ。目の前の〈空気〉が少し、変わっている。私たちも次のエントランスへ行こう…、と。

「静子の日常」という短編集はもっと短い作品が並んでいる。

何かが始まりそうなので、気の離せない家族の姿がある。主人公の75歳の静子、息子の愛一郎、嫁の薫子、孫のるかが、かわりばんこに登場する。

小説の話しごとに語り手が変わるのがユニークだ。静子と家族の目線が、色んなメガネのようになって渡されて全体で、宇陀川家の〈日常〉を見つめさせてくれる。家族とは屋根の下で同じ空気をこんなふうに共有しているものだ、と納得させられて面白い。

夫を亡くし、この家にみなと同居しはじめてからの静子の日々が綴られている。淋しさはあまり見せない。フィットネスクラブに通ったり、あちらこちらに出掛けていったりする。どこへ行っているのかと尋ねられ、静子はこう述べる。

「行ったことのないところに、行ってみてるのよ」。小さなイヤガラセと闘おうとしたり、河原で若者と酒を酌み交わしたり、愛一郎の不倫に強い釘を刺したり…。天使か悪魔か老人か。活躍ぶりが楽しい。

愛一郎は愛嬌のある人物だが浮ついた気持ちをいつも持っている。薫子は魅力ある活動的な女性である。るかは年上の彼との恋を実らせようと懸命。静子はずっと慕っていた男性に会いに出掛けていく。

しかし新しく事件が起こりそうで、そうならない。作者はやはり大きな波をわざと立てないで人間模様を細かく描き続けている。

それが淡々とした〈日常〉へと私たちの心を戻して、足し引きのない生活へのまなざしをもたらしてくれる。

静子が失恋をして涙ながらに呟く場面が印象的だ。

「人は成長するし、いやおうなく変わっていく。でも、変わらない部分もある。本当に悲しいのはそのことなんだわ」。そして鮮やかな恋慕の情が残る。

巣へと帰ろう。それぞれに想いを抱えて違う時間を過ごしているけれど茶の間では、肩を寄せ合って共に同じ呼吸をして生きている。

〈家族〉とは考えるほど不思議なチームなのかもしれない。

読み終えてやはり本にたたえられている数多くの〈空気〉の変わり目の瞬間と、全く変わっていないものがあることの両方に気がつくだろう。そして高い木の上には変わらない温もりがあると読み終えて感じるだろう。

変わる小さな波間よりもその反対の〈目〉こそに気持ちを注ぐ。そこに〈日常〉というもののかけがえのなさがある。私たちの心は大きくとも小さくともどのような変わり〈目〉にあったとしても、変わらない〈目〉の先に必ず翼を閉じて戻りたいのだ。

荒野さんはあの時、ずっと変わらずに父が大好きだったと語ってくれた。そういうところに心はいつも巣戻りをするのだ。