「ランボー全集」 アルチュール・ランボー

震災から一ヶ月が経った頃だ。相馬の松川浦の津波の跡地を目の当たりにし、しばらく呆然としていた。とにかく見て回ろうと思い、辺りをさまよった。

自然のとてつもない大きな牙の跡。これまでに体験したことのない、喩えようのない混沌と喪失の風景。眼前には倒れた電信柱やぺしゃんこになった車や、船底を見せた漁船。

遠くには青い作業服を着て、行方不明者を長い棒で探している男たちの姿。

それを見つめて、私はどうすれば良いのかを呆然としながら考えた。

私の知人の家が、この浜辺のすぐ近くにある。おそらく同じように波を受けただろう。 安否を考える。胸が締めつけられそうだ。

アルチュールランボーの全集を開いている。

この書簡の一節を見つめてこの時のことを思い出した。「〈詩人〉は、あらゆる感覚の、長きにわたる、大がかりな、理性にかなった錯乱によって、みずからを見者にします」。
「見者」とは何だろう。ただ見つづける者…なのか。

ずっとこの部分について、詩を書きながら考えてきた。あらためてこの行に触れてみて私は、あの時に壊滅してしまった浜辺に立ってこのことを肌で感じていたのではなかったかと思い出した。

彼はさらに書簡で述べている。「あらゆる形式の愛と、苦痛と、狂気と。詩人は自分自身を探索します」。この光景には紛れもなく「あらゆる形式の愛と、苦痛と、狂気」が散乱していた。そんな印象を思い返した。

「探索」をせよ…。見つづける、そして何かを考えつづけること。

未だに出口の見えない災いの後の日々を、あらためて若き詩神の筆は映し出してくれ、不条理な福島の暮らしに規則と意味をもたらせてくれようとしているかのように感じる。翻訳者鈴村和成氏の名訳の力と情熱が大きい。

その傍らには、優れた詩人でもある氏の実作者としての呼吸がいつもあるのだ。鈴村氏とはかつてあるイベントの合宿で同室になるという機会に恵まれたことがある。

部屋でくつろぎながら、鈴村氏が少年時代に出会ったランボーの衝撃の話や、謎めいた詩の数々やロマンチシズムに惹かれてその後の人生を彼に決定づけられてしまったというエピソードなどをうかがった。

諳んじているいくつかの詩句やうろ覚えの部分などについて尋ねると、すぐさまカバンから、全集が出てきたのに驚いた。

それは粟津則雄氏の訳した「ランボオ全集」であった。びっしりと付箋があって、いつもこれを持ち歩いているんです、と呟かれた。

ランボーは、どんな読み方をすれば良いでしょうか…、と恥ずかしくも聞いてみると、全集の頁をいくつか開いて「好きなところを読んで味わって、好きなように感じるのがいい」と教えて下さった。

詩集、そして全集…。たじろいでしまう方も多いかもしれない。しかしまずは、このような読み方で良いのである。それから私はそれを守ってきた。全集を開いて、様々にこの詩人への窓口が開かれていることに親しみを覚えてきた。

福島の地で静かな難しさと向き合っている私たちは今、目には見えない〈錯乱〉の時に在るのだろうか。数多くの死者を弔いながら、生きている者として何かを約束しなくてはならない。見つづけること、考えつづけること。

原子力発電所の爆発の瞬間から、私たちは社会時間そのものと切り離されたかのようになってしまっている。

未だに踏み出すことの出来ない、引き延ばされた一歩の時間を生きている。

「みじめな話だ! いまや人間はいう、★★おれは物事を知っている、と/そして進んでゆく、目を閉じ、耳をふさいで。/★★しかしながら、神々はもういない! 神々はもういない!」。

「目を閉じ、耳をふさいで」…。正に日本人の今の姿である。

詩人の生きた時代と現在の事情とを随所に重ねて読むことが出来るのは、鈴村氏の多彩な感性による翻訳の筆先ならではだろう。このようなところが私には光って映る。

「きみのツイタアアア! 若い人! きみのツィター! 神秘な力! きみの魂を揺さぶる! 見てみたいものだね! 若い魂というやつをね」。

震災後、若い人々を中心にツイッター上の議論はずっと盛んであった。こんなユニークなフレーズなどに、時を越えて不意に驚いてしまう。

「あらゆる感覚」とランボー自らがが語ったように、精神の万象が集められているといえるだろう。それが若々しい高揚感や倦怠感を伴いながら、感傷や希望のグラデーションを運んでくる。

このことは、この詩句に象徴されていると私は思う。

「充分に知った。人生の中断 ★★《ざわめき》と《ヴィジョン》よ! 出発だ、新しい愛情とひびきのなかへ!」。

〈ざわめき〉〈ヴィジョン〉〈愛情〉〈ひびき〉…。みずみずしさを伴って聞こえてくるかのようなこれらの言葉の響きが、ランボーのテキストを満たして、青春の象徴そのものとなって、疲弊した乾いた私たちの現代人の心を、潤わせてくれる。

これらは詩句のみならず後部の、家族や知人たちにあてた初めて翻訳され収められた画期的な書簡集にも強く感じられてくる。

放浪・放蕩を繰り返した彼の、コミュニケーションの欲望の強さがよく分かる。透徹した〈見者〉であろうとした彼の、もう一方では少しもそれを黙ってはいられないかのような饒舌なその姿に、他者との深い絆への憧れのようなものが見える。

旅立つこと、世界を見つづけること、考えつづけること、伝えつづけること。それが見者といえるのだろうか。頁の大冊。好きなところを開いて、閉じるのが良い。