「蚊がいる」 穂村弘

歌人の穂村弘さんは、私よりも五つほど年上の先輩である。短歌やエッセイを書き続けて人気を博している若手の代表的歌人であり、また短歌などにまつわる評論も書いている。

まず歌のいくつかを紹介させていだく。

まず一首。「ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は」。

何か悲しい出来事があったのだろうか。冷蔵庫を開いた瞬間に落涙した、その時の瞬間が描かれている。

続けて三首。「海にでも沈めなさいよそんなもの魚がお家にすればいいのよ」「 猫なげるぐらいが何よ本気出して怒りゃハミガキしぼりきるわよ」「その甘い考え好きよほら見てよ今夜の月はものすごいでぶ」。

親しい女性がふと呟いたかのようなセリフがそのまま歌になっている。こういうところが特に若い男女に人気のある理由なのかもしれない。

こういう歌も面白い。「約束はしたけどたぶん守れない ジャングルジムに降るはるのゆき」。口語体の優しいところと、軽くて残酷なところが入り混じっているような作品であるが、これは穂村作品の全体の魅力であると言えるだろう。

短歌の人口は詩と比較にならないぐらいに多いのだが、歌の作り手における特に若者の層に、このようなポップな口語体が数多く特徴として見受けられる。それはひとえに穂村弘さんや俵万智さんの歌風の影響を彼らが多大に受けているからである。

穂村さんは、俵さんと同い年であるのだが、そうして考えてみると千数百年の長い歌の歴史に、一つの革命をもたらした存在の二人と言って良いのかもしれない。

さて私は詩の他にエッセイを読むのも書くのもとりわけ好きであるのだが、そこでもやはり登場してくるのは穂村さんである。

穂村さんの新エッセイ集「蚊がいる」。蚊取り線香の箱の、あの独特の絵のようなユニークなデザインに、目を奪われる。横尾忠則さんが装丁をしている。

例えば、ニュースなどを眺めながら「海外の災害やテロどころか、高校の文化祭やキャンプのときでさえ、私には居場所がなかった。全体のなかでの個人の役割を皆は自然に見出して動いているようだ。だが、私は何をすればいいのか分からない。自分の仕事をみつけることができないのだ」などと青春時代の悩みを書いている。

このように集団と適応できない戸惑いは誰にでもあることだ。皆が誇りをもった働き蟻になれるわけではない。穂村さんはこのように皆が抱える〈適応できない戸惑い〉をとらえるのがとても巧みだ。歌人の本能のようなものかもしれない。日常にある違和感をとらえて、私たちにユニークに差し出す。

大学時代のことである。同じく上智大学に在籍している女友だちと飲み会で話していて、「可哀想」と叫ばれて勝手に同情を受けてしまい、目に涙すら浮かべられてしまって戸惑っているエピソードである。

「気づけば、いつの間にかまわしを締められて、土俵に上げられて、相撲を取らないと許されない状況になっている。僕は相撲取りたくないですから、と云えるような雰囲気ではない。そんな選択は人間としてあり得ないのだ」。

彼らしい独特の、どこかなよなよとした語り口の中に、このような全体主義への強い反骨精神があるのだ。時代を画する歌人としてのまなざしをぎらつかせるようなことはしないのだが、しかし絶妙のタイミングできらりとその何かを手渡そうとする芸を味わわされる。「これが何十倍にも増幅されたのが「戦争」なんじゃないの、とふと思う。こわい、こわいね、おじいちゃん、と心のなかで亡き祖父に問いかけながら、私はきらきらの涙目に向かって必死に言葉を探していた」。

そしてその同情の理由は、現在埼玉県の草加に住んでいるというその当時の事実であった。ちなみに穂村さんはそれが同情される理由だなどとは思っていない。きょとんとしている青年の顔が見えて面白いと笑えてしまうのであるが、それが戦争問題まで一瞬にして行ってしまうのが、穂村さんのエッセイの眼目であるのだ。

肩のこらない親しさに満ちた文体は時に脱力や虚脱を誘う。鋭い視点はテンポの良さや緊張感をもたらす。抑揚のバランスが実に上手いのだろう。

彼のエッセイの魅力は共感にこそあるが、もっと言えばこのようなことではないか。

「私の持っている殆ど唯一のスイッチが短歌である。失恋しても親が死んでも虫歯になっても、どんなに辛い目にあっても、それを五七五七七のかたちにすることで元がとれる(と思うことができる)世界の逆転スイッチ」。これは短歌を作ることの面白みについて述べている文章だが、正にこの〈逆転〉=スイッチの感覚を、一つ一つのどこかに見つけることができる。

これは心を強くするために必要な、重要なヒントを語っているのかもしれない。言いようのない悲しみをこのように五七五七七という型式にあてはめることで、それを形にしてきた。それがそれでも前に進もうとする日本人の精神性を形作って来たのかもしれない。そう考えてみると、日本人はこの形式に長い歴史をかけて人の生き死に悲哀や歓喜やめくるめく恋愛まで、あらゆる情感をこめて、型式にむしろ支えられてきたのかもしれない。

こんなふうに魅力を続けて語っている。「千数百年前から続く詩型としての、無数の死者たちとのつながり、さらには天皇制という日本史を貫くシステムとの結びつき。「君が代」の歌詞は五七五七七であり、正月の歌会始では皇族も国民も短歌を詠む。いずれも確かにこの合理的な現代社会の出来事でありながら、微妙にズレたもう一つの世界がオーバーラップして息づいている」。

「詩型」=「死者たちとのつながり」「日本史を貫くシステムとの結びつき」…。五七五七七に内在している、歴史への「逆転」=切り替えのスイッチが、歌にいつも内在されているのだとするならば、歌の好きな人がそれを求める理由とは何か。

それはつまり「現代社会の出来事でありながら、微妙にズレたもう一つの世界」の「オーバーラップ」に目を向けることにあるのだろうか。極めて現代的な口語の穂村ワールドの端緒に、千数百年の時間の巌のようなものを見てしまう理由はそこにあるのか。