「生者へ」 丸山健二

いろんな経験を重ねていくうちに、地元の福島で創作活動をしていこうと心に決めて迷わなくなった。それは豊かな自然の中に暮らしの在り処を置くことで、詩を書くことの本当の発想が湧いてくることを自分なりに直観してきたからである。そしてそれはひとえに私にとっては丸山健二の存在が大きい。長野県の田舎に居を構えて、今もひたすらにストイックに執筆活動に励んでいる丸山に心の有り様を教えられてきたことが多い。

初めて手にとった本は「生者へ」である。やがて震災の甚大な被害を受ける南相馬市に二〇代の頃に暮らしていたわたしは、都会に暮らさなければ書くことの刺激は得られないものだと激しい焦りに駆られていた。何かを獲得したいというエネルギーが心の中で渦を巻いていて、止めようがない。しかしどこにもぶつけようがなく、ただただ持て余していた。創作への強い憧れと、家族の事情などで福島を離れられない運命の間で、自分なりに葛藤を抱えていた。こんな時に丸山のこの書物の一節に惹かれた。「世界中にあることは全部信州の片田舎にあることを悟った」。

丸山は二十三歳の若さで芥川賞を受賞して、世間の注目を浴びる。しかし文壇やマスコミに翻弄されることにある時に嫌気を覚えた。全てを引き払って長野に棲み、様々な交わりを絶って、孤高の作家として執筆活動をし続けている。近年では書下ろしで作品を世に出し続けるスタイルを中心にしている。一台のオートバイが語り続ける「見よ 月が後を追う」などの小説は、内容も手法もとても実験的であり何度読んでも圧倒される。長野県の大町市に住んで執筆の傍ら、自然への賛美の畏怖の想いを心の中で味わい尽くすようにして作庭に励む生活をしている。その邸宅の庭が題材となったエッセイや小説、写真集なども素晴らしいものが多い。

もともとは東京の商社に勤務していた。「私の行動を大きく左右してる直感力の中心部のあたりから突如として湧き起こった。間違いなく自分の能力でありながら、自分の意志や意識の及ばない、磨くに磨けない感性が、いきなり小説という形に結びついてしまった」と自身がこの自伝的エッセイである本書で語るように、作家の目覚めは突然にやって来た。

それまではろくに本なども読まない文学青年であったが、不意に眠っていた精神が到来したのである。「現在でも私は、相変わらず自分では到底タッチできない精神の領域で繰り返される、尽きせぬ魂の爆発に揺り動かされて書きつづけている」。

それから芥川賞まであれよという間に階段を登ってしまうのであるが、その後にそれらを取り巻く世界に激しい違和感を感ずる。文学を取り巻く世界そのものを「垢抜けない場所」「素人集団」と直感して、「文学青年の軟弱な生き方とはほど遠い、一個の独立した、限りなく自由な存在」でありたいと強く感ずるようになる。

長野県に移り住んでからは、なかなか生活になじめずに、まず釣りばかりをしていたそうである。湖に鯉を釣りに出かけていた。それも夜釣りに行っていた。灯りなどない山中の暗闇は、私も迷い込んだことがあるから良く分かるのだが、想像以上に恐ろしい気配に満ちているものである。

「底知れぬ闇。深い静寂。魂までに達する月光。精神が直に感応する流れ星。そういったことを前にして長いことじっとしている行為には、どこか座禅に共通する点があった。悟りを開くような驚愕の結果には至らないまでも、また、そんな大それたことに期待していたわけではなくても、知らず知らずのうちにかなり鋭い思索へと導かれていたことは事実である」。

この文章にとても想起されるものがあった。

「魂までに達する月光」。私は幼いころから寝つきの悪い子どもであった。家族が寝静まってから、目が覚めてしまい、こっそりと起き出して縁側のカーテンの隙間から月の光と辺りの山を眺めるのが好きだった。近所も農業を営んでいる家が多かったので、夜は早くから眠りにつく。家の明かりは消えていく。そこを月の明かりがこうこうと照らしている。この時の私は無人の世界にとても惹かれていた。井戸があり、その屋根が照らされてなお赤みを増してくる。その鮮やかな色彩はいつまで眺めていても飽きなかった。この気持ちは何だろうか。私はある時にこれが孤独というものなのだと知ったのだ。「かなり鋭い思索へと導かれていたことは事実である」。幼心にそこまでの域に達してはいないが、
いつもすっかりと夢中であった。実家から離れていく成人の時まで、この行為はずっと続いた。

丸山はこのように続けて語っている。「夜釣りを重ねるようになってからは、孤独を孤独と思わなくなり、むしろ孤独の対岸に横たわる摩訶不思議な安らぎにかつて味わったことのない心地よさを覚え、わが意図をはるかに上回る哲学と芸術の融合としか言いようのない力がペン先から迸るようになった」。私が詩を書くことで求めているのも、このことではあるまいかと感じた。ある一つの何かから隔絶された孤独の中に身を置くことで「言いようのない力」を筆先に求めていくことなのではないか。

例えば岩手県の宮沢賢治や花巻で山荘暮らしをしていた高村光太郎、群馬の前橋の萩原朔太郎など私の好きな詩人たちはみな、このような姿勢と思想をいつもどこか傍らに置きながら、田舎や地方の街に身を置きながら作品をこつこつと残し続けたのではあるまいか。 私はがんであると診断されてなお、抗がん剤を迷わずに机に向かい続けて、世を去った作家の井上光晴氏の姿が浮かんだ。初めてお会いした時の本物の人物の迫力や、死を前にして創作を貫いた姿に圧倒されて、文学を志したのではなかったのか。都会に暮らせないことを憂えて、それを理由に怠っているだけではないのか。

私は仕事を終えてから、いわゆるアフターファイブの時間を、ずっと机に向かい続けることにした。締切があるわけでも、誰が読むわけでもない詩を、かじりつくようにして書き続けた。

ある夜に筆が止まった。止めたくもないのに、そうした。部屋の壁をただずっと眺めて、涙が止まらなかったことがある。

この時の私は悲しいのか、嬉しいのか、全く分からなかった。

激しく泣いた後、丸山のこの文章がふと浮かんできた。「文学の鉱脈は無限であり、文学の奥の深さは加速度的な膨張をやめない宇宙の深さに匹敵する」。

このことを心の奥が、少しだけでも知ったのかもしれなかった。

私の二〇代の青春のほとんどは、こんなふうに過ぎていった。