花は長い間忘れていたことをふと思い出して咲く

三月から四月へと移り変わる時、例えば関西などへと出かけると、梅などが満開になっていて驚く。こちら東北はまだ山に雪が残っているのに。春の知らせのように、花をめぐる美しい詩集が届く。松尾真由美「花章―ディヴェルティメント」(思潮社)を開く。
 例えば器に置かれた花束に注目している。

触れればくずれる 
そんなあえかな稜線を
束ねることの希望にからまり
すこしの凝集
柔らかに
まるまって
迂回路はしろい器の上

植物の様々な形状へと深く繊細な眼を注いで、それを見落とすまいとして心に張りめぐらせている緊張感が伝わってくる。言葉で描こうとして、それと対決しようとする姿がある。めぐる季節への詩人の視点を、容器ならぬ詩の中へと集めようとしている。
 
しばしの昏睡を遊んでみる蕾である
狭められた鏡のかがやき
日向のように熱いところで
寄りそいあう襞たちの
泉の余地に感応し
空白があること
悦びとなる

これらは言わば私たちの四季と生のありかをそっと映し出す「鏡」であり、生きることの力をたたえる小さな「泉」であり、生きることの深みを見つめて沈黙する何かである。それを「空白」として譬えることができる、そのようなイメージの連鎖を私は受け取った。
 花の見つめ方はまさしく人それぞれである。詩もまたどの角度からでも…、というメッセージが、あたかも言葉の彫刻であるかのような、これら硬い手触りの言葉の空間から伝わってくる。決して単なる花へのオマージュの詩集ではない。春夏秋冬と暮らしの意味とが織りなす一日に描かれる静かな心の文様のようなものを、多様な形と色を織りなす花の姿へと見立てて、なまなかではない結晶を作っているのだ。

  なぜかひろがる言葉の綾の
ふたしかな鋭角から
受け止めるいくたの情実
あってもなくてもいい
清廉でも邪悪でも

言葉には花房と同じように襞や綾がある。それを見つめることは、花々のそれぞれの形にあるそれらの「ふたしかな鋭角」と向き合うことに他ならないのかもしれない。

夢みがちでいたい宵の
その中心のあでやかなところ
淡く白く雪のごとく
蝶の襞
羽ばたく

雪、花、蝶。めくるごとに四季の小さな風景の明暗のようなものが清新に感じられるだろう。森美千代の花々の写真が詩の傍らにいつもある。花と言葉、写真と詩…、幾重もの拮抗の形を、春の兆しと共に味わってほしい。
 井坂洋子の新詩集「七月のひと房」(栗売社)。言葉も花も、めぐる歳月や記憶の中で再び目覚めるかのように鮮やかに咲き出すことをじっと…。そのような連想を与えてくれる一節。

花は長い間忘れていたことをふと思い出して咲く
忘れてしまうと咲かないという
それが何であったか
花の色は告げているかもしれないが
解読できない
さまざまな色合いをただうつくしい調和と思うだけだ

まもなく、梅花早春の東北である。 

 
(初出「毎日新聞」詩の時評「詩の橋を渡って」2017年 3月)
*現在も「毎日新聞」にて時評連載中です

 

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2018.01.22更新