ありのまま、そのままに

震災をありのまま、そのままに記録していくこと。福島でこの時を生きている人間が、これからの子どもたちへ手渡さなくてはいけないことだと、物書きとして信じてきた。

震災当時は、状況下で何かを伝える方法は私にとってツイッターしかなかった。発信していくうちに、たくさんの方からメッセージをいただき、励まされた去年のことを昨日のことのように思い出す。やがて書き続けたものは「詩の礫」など3冊の本にまとまった。終わらずにさらなる詩作や、被災者へのインタビュー、ノンフィクション作家の佐野眞一さんとの対談の機会を重ねてきた。この春にそれぞれ四冊の新刊となった。感謝したい。

「ふたたびの春に」は、震災後の一年間を綴った詩とエッセイから成り立っている。「震災ノート」とサブタイトルが付されているが、手帖や帳面などに書いてきた、震災後の春夏秋冬の日々をこの一冊にまとめた。

ところで私はそもそも日記などが苦手である。しかしどこか憧れもあって試みたことが何回かある。これまでの日記帳を開くと、きちんと三日で終わっている。そのような私が、ともかくも何かを残したいと切実な思いに駆られてきた。メモを書いた日付と場所を忘れずに記すことを唯一の決まりとして書きつけてきた一年だった。あるいはこうしたことがニガテだという意識が強くあるからこそ、反対にそれを頑なに守ろうとしたのかもしれない。

避難所で夜を過ごした三月十三日の手帖には、このように走り書きしている。「死者の数が 一時間ごとに増えていく/僕らは避難所で ジュータンの上に座り/呆然と漂流するしかない//靴をなぜだか並べ直す/腕時計を一分だけ遅くする/やはり 死者の数は増えていく」(詩「こうしていると」)。これは、施設でロビーのテレビを見つめながら記したものだ。思えば原子力発電所の三号機爆発を翌日に控えたこの日の数行は、本著を成すこととなるきっかけとなった。

昨年の6月から被災者へのインタビュー取材を、続けてきた。福島県各地などに行き、33人の取材を行ったが、その度に詩の筆は動いた。

当時、2500人が暮らしていた避難所「ビッグパレット」で、川内村や富岡町から来られた方の話を伺った後の帰り道に、なんだか無性に悲しくなった。車を路肩に止めてずっと夕焼けを眺めていたことがある。手帖にこんなふうに書いた。「帰り道 夕暮れ/泣きたくなって/ただ そうした みなしごのように/幼い頃に帰りたくなった//雲間には/光る/鳥の家/ただいま」(詩「ただいま」)。
十一月二十七日には防護服を着て、二〇キロ圏内へ、取材に入った。ビニール地の服は全身を覆い、もう一つの皮膚を思わせるものであった。手首や足首などにテープをぐるぐると巻き付けて厳重なマスクをして足を踏み入れたが、ここまでしなくてはならないのかとあらためて悲しく思った。二十代の頃に南相馬市に暮らしたので、小高や浪江など、懐かしい場所へ向かった。

人影は当たり前だが、全くなかった。

かつてにぎわいのあった浪江駅に行った。厳しい表情の静寂に追われるようだった。持ってきた手帖に書き留めた。「皮膚で 足の裏で/てのひらで 耳の奥で/つま先で 脇の下で/感じていること このことがすべて//次なる皮膚 防護服のチャックを上げて/手首にテープを巻いて 空を見上げて」(詩「サボテン」)。

よく遊びに出かけていた請戸の海辺に行った。ここは、十一日の原発の爆発直後に避難と立入禁止の指示が出され、波にさらわれてうちあげられた瀕死の方々を、自衛隊も消防団も無念ながら救助することのできなかった浜辺である。手を合わせて祈った。
夢中で文字を刻みながら、今私の書きたいものは、記録と文学のはざまにあると直感した。不条理な現実を、かけひきなく形にしていくことが、福島に暮らす私の命題なのだと、誰もいない青空の下で念じた。

一年が経っただけである。出口は見つからない。扉を探して、手帖を握る。

初出「新刊展望」