電車乃座席日記 某月某日7 「おれのおばさん」の巻

最近、青春をキーワードにしたエッセイの依頼をいただいた。しばらくあれこれと考えているのだが、その概念は色々である。
成人を前にした特別な時間をそれと呼んでいる人もいるし、「一生青春」というスローガンを掲げて年齢にこだわらずにいつも元気な方もいる。中高校や大学生時代を指すのでもあれば、一人前になるまでの人生修行の時間を(例えば二〇代を超えていたとしても)、そんなふうに言う場合もある。
例えば「青春映画」とか「青春群像」などという四字熟語。この時に想像するのはやはり制服の姿である。私は高校の教師なので、言わば毎日のようにこれらの「映画」や「群像」と接しているようなものだ。実はこの職業をしていて、楽しいと思うことの一つは、いくつになっても高校生たちと同じ目線でいられるということである。
圧倒的に毎日の時間の多くを彼らと過ごしているわけだから、それは当然のことだ。大人である今の自分の心を見直す機会を、彼らの新鮮な視点の先からもらうことがとても多い。その目の先にある私の姿に気づくとき、新しい自分との出会いの瞬間がそこにあるような気がする。
これは「青春小説」を読んでいる時にも、同じ事が起きていると言えると思う。青春の〈目線〉を読みふけりながら感じることができるからこそ、例えば生き生きとしていた人生の時の何かを大人は思い出すのであり、これからその時期を迎える子どもたちは、それにこよなく憧れるのだ。
ところで、子ども時代からその先へと変わっていく時の一つの指標は、親や自分への呼び方だったのではあるまいか。私は初めは「パパ」「ママ」と呼んでいたが、いつも仲良くしていたおばさんにその呼び方はもう止めなさいと言われて、急に「お父さん」「お母さん」に変えたことがある。おばさんの家から戻って、すぐにそう言い方をしたものだから、家族にビックリされたのを今でも覚えている。同様に「ぼく」という言い方について「俺」とか「私」などという自分を表す名詞を教えてくれたのも、このおばさんである。
しかし実は、四〇も過ぎてまだ自分を「ぼく」と呼んでしまうのだ。特に父母の前ではそうである。このことについて、切り替えるタイミングを何だか逸してしまったのだ。時々「おれ」と切り出すと、私も実家の人々も妙にくすぐったくなってしまうのだ。妻子の前では威張って「おれ」なのだが…。
「おれのおばさん」(佐川光晴著 集英社刊)は、「ぼくは、ずっと「ぼく」だった」と自覚していた主人公陽介が、中学校二年生になって「自分が「おれ」になっていること」に気づくところから始まる。いつしか、それに変わっていた…。というのも、そのような感慨にふけっている場合ではないほどの事件が起きた。物語の冒頭から、陽介の家に崩壊の危機がもたらされてしまうのであった。
ある日突然に、銀行務めをしていた父が、愛人に貢いで仕事のお金の横領を行い、逮捕されてしまったのだ。それでも離婚を選ばなかった母は、借金を返さなくてはならなくなり、住み込みで必死で働くことになった。
陽介は東大の合格率が都内で最も高いとされる名門中高一貫校に通っていたが、すぐに自主退学をする。伯母が運営する北海道の児童養護施設に入るしか、他に寄る辺がなくなったからだ。
唯一伯母の存在だけを頼りに、見知らぬ札幌の地でグループホーム暮らしをしなくてはならなくなってしまった陽介。この時に彼は「おれ」という呼び名と出会う。しかしそれは、今まで何の心配もなく暮らしてきた少年の、強がった気持ちに初めは本の中で見える。
施設の名は「魴鮄舎」。いろいろな事情で親と暮らすことの出来なくなった中学生だけを預かっている。恵子おばさんは、男勝りで口が悪く、豪快で芯が強い。両親の愛を受けてこなかったそれぞれの子どもたちにとっての頼れる母であり、時には厳格な父親の存在でもある。甘ったるい言葉など一切持たないが、大きく優しく子どもたちを包み込んでいる。
かつてはアングラ劇団の看板女優であった。現在、札幌で彼女を支えている友人もそして元夫なども、大学時代の演劇仲間。今はそれぞれの道へ。おばさんは福祉施設の仕事へ…。おばさんや、彼女を囲む人々、「魴鮄舎」の仲間たちのかけがえのない味わい深いそれぞれの人生に出会い、前を向いて道を進もうとする。やがて「おれもおばさんのように全力で生きたいと思った」と陽介は心を決める。そしておばさんは最後になって、とてつもない決意を述べる。それを「魴鮄舎」の面々は受け入れて応援するところで、話の幕が閉じられていく。
それは、どのような「決意」なのか。一度はあきらめたことをもう一度やりたいと言い出したのだ。今までやっていた「魴鮄舎」の切り盛りは、陽介の母でありおばさんの妹である令子に任せて、やがて出所してくる陽介の父にもここに来てもらうことにする。そして自分はここを受け渡して、もう一回とにかく目指してみるのだ、と。
恵子おばさんは正に青春の真っただ中に踏み出そうとしている。一度はあきらめかけて、色々な経験を積み重ねてきて、またあらためてそこへと向かおうとしている。これまでも医者になることの挫折や離婚など様々な経験を積んできた。もう若くはない恵子おばさんだが、自分の生き様を青春の〈目線〉で探している。
その姿を見て陽介は心で呟く。「おれはなんにだってなれる気がする」「おばさんだってそう思って医学部をめざし、役者になって、芝居にのめりこんだのだ。だからおれも自分がこれだと思う仕事に全力で取り組んで、その結果どれほどみじめな目にあおうとも、おばさんや拓也に胸を張れるだけの生き方をしたい」。「がんばれ、おれのおばさん!」と陽介は大きな声でエールを送って物語は終わるが、これはそのまま自分への若々しい叫びである。
自分を探すこと、鏡を探すこと。〈青春〉とは新しい呼び名と出会っていくことなのかもしれない。辛い状況に立たされても、いつかは自分を追い抜いていく力こそが若さなのである。自分を「ぼく」と呼んでいたのに、いつ頃からなのかそれが「おれ」へと変わっていく時、一人の男が風の吹く丘に立つ姿を想像する。
「春風や闘志抱きて丘に立つ」(高浜虚子)。
この句は大志を抱く青年像が託されている。今の社会の風の中を、誰もが青年の〈闘志〉を抱いて生き抜いていくべきなのだという応援歌が聞えてくる気がする。
ところで青年へと変わる時が、「おれ」という呼称への変化なのだとすれば、「ぼく」をどこか捨てられない私は、このまま永遠に少年なのだろうか。
不惑を半分も過ぎてしまった「ぼく」は惑う。

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