電車乃座席日記 某月某日5

5 横尾忠則さんの巻

朝早くに東京から、福島へと戻るところである。新しい東京駅の丸の内口前に降り立つ。時間がとても早いからなのか、人気のない街の表情を、新鮮に眺めてみる。
ある一つの高いビルが朝日を浴びて赤い絵の具を塗ったみたいになった。
不思議な力に満ちた野蛮な色。
あまりにも露わな朝日の紅い色を目前にして思い起こす。
横尾忠則さんのアトリエに、初めてお伺いした時のことを。
玄関先で、このドアの向こうに横尾さんがいらっしゃるんだと思った。横尾さんの絵に触発されるようにして詩を書き続けてきた私としては、緊張のあまりなかなかチャイムを押すことが出来なかったことを今も覚えている。
ご挨拶させていただくと、とても気さくに接して下さり、くつろいで話をすることが出来た。しかしお邪魔をしすぎたのかもしれない。対談はお昼過ぎから始まったのだが、なんと終了したのは午後8時半。
その間、横尾さんは一度もお休みにならず、語り続けていらっしゃったのであった。
エネルギーに圧倒されながら、むしろこれほどの〈語り〉の力があってこそ、自分にしか描くことの出来ない未知の世界へとたどりつけるのであろうと直感した。
合間にデジタルカメラで、お姿を何枚か撮らせていただいた。
横尾さんにお見せしたところ、ある一枚に目が止まる。
こちらを見つめる横尾さんの横顔が夕陽に照らされて、真っ赤に染まっている。
これは珍しいと興味津々。
この頬の赤い色が珍しい。ぜひ送って欲しいと頼まれた。
見れば見るほど不思議だ、西日はこのリビングにこんなに強く当たらないのだ…としきりおっしゃっていた。帰りがけのあいさつの折にも、あらためて写真について依頼を受けた。帰り道にデジカメのスクリーンを見返しながら、偶然による色彩の閃きにセンサーをかなり敏感に働かせていた様子だったが、これこそは画家の本能によるものなのだろうと思った。
それからである。何かを感じ入って背筋が寒くなるような瞬間、横尾さんの頬を支配したこの朱色を、時折に頭の中に蘇えらせるようになった。
二人でトークショーを行うこととなり、1年程が経ってから福島へとお招きした。
その前日に松尾芭蕉が立ち寄った飯坂の、奥にある温泉の旅館の部屋で、向かい合って夕食をとった。横尾さんはお酒はそもそも召し上がらないそうであるのだが、とても楽しげにあれこれとお話をして下さった。私ばかりが酒杯を重ねてしまった。
絵画の話、当時泉鏡花賞を受けられたばかりの小説「ぶるうらんど」「ポルトリガトの館」のエピソード、「隠居宣言」とは何か、あるいは書評やエッセイの仕事のことなど。 初期の作品に、枕元で小さい黒い子どもが相撲を取っている場面が描かれているものがあり、私はそれが好きであることを伝えた。そして私も幼い頃に、夜中に真っ黒な子どもが家の中を遊んでいるのを見たことがあると話した。
そこからしだいに見たことのある超常現象や宇宙人や、不思議な夢の話へと進んだ。
例えば横尾さんが、ある旅先のホテルで遭遇した宇宙人は、部屋に入ると直立不動で横尾さんを見つめていたそうである。
特筆すべきは足がベッドを突き抜けていたことであった。侵入者の彼はベッドの下の床から立ち上がってたたずんでいた。ふともものあたりから全身を横尾さんは確認できたのだそうである。それが奇妙でおかしかったとのこと。
横尾さんのお話しにいちいち腹を抱えて笑ってしまいながら、夜遅くまで会話は続いた。
隣の宮城県の秋保温泉の宿では、伊達政宗の夢を見たそうである。
川べりを歩いていると、向こうから黒い馬と武者が現れた。
馬はほんの数センチ、川から浮かびながらこちらへ駆けてきた。
横尾さんの前で急停止。
水しぶきをかけられながら、彼は思わず叫んだ。
「誰なのだ、おまえは」。
刀をびゅっと振り、男は構えて一言。
「伊達正宗じゃ」。
ちなみに横尾さんは歴史そのものがあまり好きではなく、政宗がどのような武将であったのか、今まで全く興味がなかった。東北・宮城の覇者であったことも知らなかったそうだ。翌朝、女将さんに何気なく話したところ、ここの宿はよく正宗が湯治に来ていたことを聞く。横尾さんはさっそく、その風景を描いたそうである。
このことについては、「温泉主義」(新潮社刊)という本にエッセイを一つ書いたとおっしゃっていた。それがずっと頭にあった。しばらく経ってからその本を書店で見つけることが出来た。北から南までの各地の温泉をめぐっての、彼なりのユニークな語り口と絵でつづる、横尾風湯けむり紀行。温泉から戻ってきては絵筆を握り、紀行文をしたためる。文章と共にその都度に仕上げられた絵画作品も掲載されてあり、読み進めていると書物の温度のようなものが、ぽかぽかと静かに上がってくる気がする。
秋保の話しと伊達政宗の絵を見つけた。
黒い武者が描かれている。
兜に三日月という有名ないでたちも、横尾さんは知らなかったそうである。
しかし侍の頭上には細長い月が飾られている、と夢の中で分かったそうだ。
闇に立つ、黒い馬と武士。霊気。
書物の中の一枚に見とれていると、書斎の窓に、雨が降ってきた。
寒くなってきた。
横尾さんの頬を染めていた〈紅色〉が思い浮かんだ。
彼のとらえるそれぞれの色彩は、この世界の夢うつつを親しく混ぜ合わせていくようにしていきながら、いまここに生きて在ることを新しく鮮やかにしてくれる。
そのために、その色を選んでいるに違いない。
黒い色を見て、なぜに私はあの赤みを想うのか。