電車乃座席日記 某月某日4

4 始発の電車と改札口の巻

横並び。私の右側では、大学生らしい若者が二人、何も語らずに席に座っている。一言も言葉を交わしていない。すぐ隣の彼は「ティファニーで朝食を」を熟読し始めて。もう一人の男はスマホで「ぷよぷよ」を熱心にやり始めた。いつまでも会話はない。
しばらくすると本から顔を離して、少しだけ首をかたむけてきっぱりと言った。「ガム食べる?」「いらない」。そしてまた二人は、押し黙ったままでそれぞれの世界に没入していった。両者の沈黙は、同じ場所へ行くのだということを、硬く約束しているかのようである。
通路を間にして、斜め前では朝から実験の話に夢中だ。やはり男同士の姿がある。朝の七時前だというのに、熱心な真顔の会話が続く。このまま実験室へとなだれこむのだろうか。向う岸は熱い。川ならぬ通路をはさんで、例えば彼らからこちらを眺めると、隣の無言の学生たちと私とは対岸で初めから消えている火という感じだろうか。あれこれと思っているうちに、母校の福島大学に隣接する金谷川駅に到着した。
いつも進行方向の一番前の車両に乗り込む。転勤して電車通勤となった初日の、四月一日からそのように決めている。運転席のすぐ近くの座席に腰かける。窓に金谷川の景色が映ると、二十数年前の通学の風景の記憶が必ず過ぎる。すごいものである。このように体に刻まれているのだ。それをずっと眠らせているだけなのだ。なるほど。何かを忘れてしまうということは、消えてしまうのではない、〈眠らせている〉だけなのだ。向うの彼らは降りて行った。こちらの二人は無言で座ったままだ。後輩ではなかったことが分かった。
気がつくと車内は満員になっている。窓を眺めると、桜が満開になっている。通勤客に紛れて、遠くからお花見に来られた方がいらっしゃるのだ。ここから恐らくは、三春の滝桜などの名所に行くのであろう。郡山で乗り換えれば一時間ぐらいで到着する。朝の始発なのだが、早起きは気にならないというご年配のご夫婦や友だち同士の姿が特に多く見受けられた。
リュックを背負ったウキウキしている人々と、通勤の疲れでいびきをかいている、やはりご高齢のサラリーマンの姿が並んでいる。袖触り合うのも多生の縁。全く違う人生を生きていて、隣同士に座って、また大きく分かれていく人々。一人は春爛漫の世界へ。もう一人は書類の積みあがっている机へ(予想)。
始発の車内を見回すと、私と同じように仕事へと出かける父親たちの姿。様々な人たちの顔を眺める。知らない人ばかり。交わることのないあらゆる暮らしを乗せて、目的地へと連なる車内は、いわば一つの社会の縮図である。車窓の朝焼けを眺めながら、一つ一つの風景を座ったままで、通り過ぎていく不思議さを想う。乗り込む人、降りていく影に紛れていると、自分の人生はこんなふうに一瞬のうちに何かに乗り込み、通過し、途中で降りていくことの繰り返しなのだろうかと考え込む。なんともなしに大切な駅のホームを過ぎていってしまうかのような人生。
出発から到着の駅を移動することの連続の中を生きているが、一つのところに集まり、離れていく私たちの行為自体が、これら離合集散の瞬間そのものが…、〈駅〉と呼べるものなのではないかと思う。このように別々の行く先を抱えながら、始発の電車という運命共同体を共にして、そして散らばっていく。私たちはたったいま電車に揺られているのではない、〈駅〉が内包している想像に座ってそこから別のそこへと運ばれているのだ。常連客を除けば、この時だけでもう二度と会うことがない人間がほとんどである。なんだかまじまじといろいろな人の顔を見つめる。不審者と思われてしまいそうである。
祖母はいわゆるマンウォッチングが好きだった。いろんな人の様子を観察するのが面白いと良く私に話していた。膝を痛めるようになって、病院や駅の待合室に車で迎えに行くと、私を待って椅子に腰を下ろしながら、人混みの中でよくきょろきょろとしていた。ああまたやっているな、とちょっと吹き出しそうになったものだった。
そういえばついこの間、知り合いになったばかりのある男性に趣味を尋ねた。「マンウォッチング」と答えが返って来た時は、思わず「私の祖母と同じですね」と切り返してしまった。彼はいくら観察しても飽きないとさらに語った。人通りが良くみえる窓のある喫茶店に行き、珈琲を幾杯も重ねながら、時を過ごすのだそうである。うっとりと語るその姿に、「お店としては、迷惑な客のリストに入ってるかもしれませんね」と言い合って笑った。
祖母も迎えに行くと「いくら観察しても飽きない」と同じようなことを口にしていたものだった。私の行動が遅くて、いつも待たせてしまっていた。私を気遣ってそんなことを言っているのかもしれないと、どこかで思っていた。
祖母が他界して、しばらくして時が経った後、駅に用事があり出かけた。思わずいつもの癖で、その姿を探してしまったことがあった。改札口の前にたたずんでいた懐かしい姿が浮かんで、ふっと寂しさと笑みとがこぼれた。
こんなふうにして、旅立っていくときに、きょろきょろと見知らぬ人たちをやはり眺めたのだろうか。今度は私の迎えを待たずに、列車に乗って行ってしまったんだとはっきりと分かった。
そう思ったこの瞬間が、心の中に強く刻まれていたことを最近になって知った。改札を抜ける日々を送るようになって、ほんの一瞬だけれど、祖母を亡くしたばかりの時が浮かぶ。別れの悲しみとは、決して消えるものではないのだ。時間をかけて〈眠らせている〉だけなのだ。そんなふうに気づきながら、満員電車に明日も揺られている。