電車乃座席日記 某月某日3

3 谷川俊太郎さんの巻

私の手には、文庫本があった。
それは集英社から出ていた谷川俊太郎のアンソロジーであった。
若いときの作品中心にそれは編まれていたのであったが、それをバッグにいつも入れて、大学へと通う電車の中や待ち時間など、開いてぽつぽつと読んでいた。
猛烈に詩を書き始めるようになるまで二年の間ぐらい、こんなふうに詩に近づいたり離れたりしながら過ごしていた。そしてよれよれになるぐらい、この本を長い時間をかけて開いた。
良い出会いだった。何かに追われるようにしてとか、命じられてというわけでなく、それを開くのが習慣となっているかのような本。読み終える早さを求められたり、感想を要求されたり、そのような約束が一切なくて、戻りたければいくらでも前に戻って良い読書。
これまで国語の教師に、眺めるのではなく、しっかりと読みなさい、などと叱られたこともあった。しかしこれは眺めることの面白さなのかもしれない。私はある贅沢を初めて知ったのかもしれない。そして、詩とは繰り返し読んで味わうものなのだ、とも。
「あの青い空の波の音が聞えるあたりに/何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい」。初めて目にした時に、ああこれは有名な一節で、教科書などにも掲載されているものだ、と思った。読んだことがあったものだが、あらためて私の若い感傷の瞼は大きく開いた。
「透明な過去の駅で/遺失物係の前に立ったら/僕は余計に悲しくなってしまった」。 電車の振動が私の心を揺らそうとしたのかもしれなかった。言葉に目を落としたり、窓の空の雲を眺めたりした。
大学まで通う片道たった十分の間の列車の中の時間であったのだが、毎日揺られながら本を眺めていると、かなりのものを読むことが出来ることに気がついた。
特に短い間ではあったとしても、数編の詩を何度も味わい直すのには十分であった。がたごとと揺られながら言葉の一つ一つに新鮮に触れるということは、体に感応させながらそれを読もうとすることとどこか似ていた。
人生とは面白いもので、素直に詩を読む時間をちょっぴり大事にしていただけの人間が、詩を書くということを一生の仕事にしようと心に決めるようになるとは夢にも思わなかったし、谷川さんと親しくさせていただくようになるとも想像しなかった。
これは谷川さんに限ったことではないが作者にお会いすると、その息づかいやたたずまいが作品を読んでいる時にふと隣に感じられてくるようなことがあるものだ。谷川さんの優しい面持ちの中に凜とした呼吸がいつも感じられて、独特の緊張感にいつも私は相対すると包まれるのであるが、最近は特に年を重ねられてますます詩心の潔さが増している感じを受ける。
「自選 谷川俊太郎詩集」の特筆すべきところは、何よりも自分で自作を選んでいるという点にある。まえがきでこんなふうに語られている。
「世間ではさほど評価されていないが、自分では気に入っている作がある。反対にたとえば教科書に採用されたりしているが、自分ではどこか不満を感じている作もある。自選の場合でも、目は自分自身よりも読者のほうに向けているつもりだが」
これは私も実作者として良く分かる。言わば詩を書くこととは、このこととの見つめ合いなのかもしれない。ツイッターに詩を書くということをずっと続けてきて、「ツイッター詩人」などと呼ばれることも時にあるのだが、それを通しての一番の発見とは、自分で気に入っているものが出来たとしてもほとんど反応が感じられなかったり、反対に意外なものにリツイートやメッセージが数多く見受けられたりする。
これこそは言葉のキャッチボールなのだとするならば、そのただなかにこそ詩とはあるべきものなのかもしれない。なかなか近寄りがたい印象があるのが現代詩の世界だが、戦後からずっと独自の道を切り開き、たくさんの読者を獲得している谷川さんは、ずっと「目は自分自身よりも読者のほうに向けている」ことを貫いてきたのだろう。その〈目〉とはどのようなものだったのか。「自選」という行為が、どこかはっきりとそれを教えてくれている。
そのまま彼の〈呼吸〉がはっきりと伝わってくるようだ。いくつも出ている他のアンソロジーとはどこか根本的に異なる何かが分かる。谷川さんはいつも「詩とは自分の中の無意識が書く」と語る。「どんなふうに一篇が書き終わるか、書き始めてから最後まで分からない」とも。そのような筆先で書き上げたものがここには多く収められているように思う。「悲しみは/むきかけのりんご/比喩ではなく/詩ではなく/ただそこに在る」(「悲しみは」より)。
「最後まで分からない」とは、何なのだろうか。そこに彼の書く〈無意識〉の秘密が大きく深く横たわっているように見える。少なくとも自分ではない他者性のようなものが存在するといえる。言わば詩の中の〈無意識〉を通して彼は、書いている時にとらえた心の内側の他人のようなものと向き合っている。
私はずっとこう直感してきた。〈他人〉の眼とは、詩を読もうとする私たちのまなざしなのかもしれない。すると私たちは詩人の言葉を通して、鏡の中の自分と見つめ合っているということになるのかもしれない。
だから青春時代のあの私は、毎朝に鏡を眺めるようにして、振動の伝わる座席で文庫本を繰り返し開いたのだろう。
あなたが詩の内面でとらえられている他者に、自分の心を探し出そうとする時、詩は詩人のものであると同時に、あなたのものになる。
そんなふうにしてあなたに、ぼろぼろになるまで、まずは一冊の詩集と付き合ってほしい。これから街へと出かけていって、片隅でこつこつと文庫本を開いている青年を探してみたい。