蟻が来る、夏が来る。

 手を洗おうとして、洗面所の白い壁を一心に這う虫の姿を眺めていて、なぜだか初夏の訪れを感じてしまった。
 そういえばよく庭で遊んでいると、虫たちが現れた。私はそれをじいっと見ているのが、大好きな子どもだった。春から夏へと向かう、季節の地べたを這っていた虫たちの影の記憶と、目の前の迷っている彼の姿とが、重なったのだろうか。
 どこへ行けば分からない侵入者は手を洗う水の音に、とても怯えているようだった。虫の挙動不審さが懐かしい。
 実家は造り酒屋をやっていたので、本宅と、二つの蔵や物置小屋などがあった。建物や草の陰。あちこちを探し出せば、必ずどこかに虫がいた。蟻、毛虫、バッタ、チョウチョウ、セミ、ハサミムシ、ダンゴムシ、クワガタ、コガネムシ…。
 正義の味方も悪者も存在しないのだろうが、気持ちのよい虫とそうでないものとがある。基準は何なのか。特に幼い頃は、そんなことは全く分からない。家の周りはほとんどが農家なので、辺りは朝早くから仕事をするために動き出す。私も起きてすぐに虫探しをしなくてはならない(と勝手に決めていた)。
 そして牛乳瓶に集めた虫たちを、なぜだかいつも朝の支度に忙しい母に見せに行ったものだった。
その都度の母の表情で、私は「気持ちのよい虫」と「そうでないもの」とを学んだのかもしれない。例えば手当たり次第にダンゴムシ(「ダンゴムシ」とは、まだ知らなかったのだが…)を集めて、それを見せると、あまりの光景に母は絶句。すぐに棄てることを命じられた。勿体ないと思った。裏手にまわり、父の寝室の窓をノック。目覚めた父に「カブトムシの幼虫」だと言って自慢。その日は休日だったので、ゆっくりと朝ご飯を食べてから、本物のカブトムシの幼虫を探しに、二人で近くの森まで行ったことを今でも覚えている。
  


 

成長していくにつれ、だんだんと意地悪になる私。
牛乳瓶の中の虫たちは外の世界に逃げ出したくて、必死になっている。必死にもがくそれら全身の様子が、瓶の中だと、とても良く分かった。みな一様にガラスの中を滑り続けている姿に、生きることの必死さが見える気がした。逃がすと、みなそれぞれに一目散に逃げていった。
 ある時に牛乳瓶に、砂糖を半分まで詰め込んで、そこに捕まえた蟻を放したことがあった。絵本か何かでお菓子の国の話を読んで、このことを発想したと記憶する。蟻は、いつも必死に甘い物を探しているのだから、これはまさしく天国の気分だろうと信じて、疑わなかったのである。
 ずっと一匹の様子を見つめていた。彼は狂喜乱舞して(そのように見えた)、砂糖の中に巣穴を掘り始めて(そのように見えた)…、そこからはしだいになんだか様子を見ているのに飽きてしまって、最後はぽいっと逃がした覚えがある。
 さきほどまでは相当な甘さに酔ったとしていても、正気を取り戻して自分の道をしっかりと歩いていく姿に、何だか見とれたものだった。地べたの世界へ。蟻の前に道はない、蟻の後ろに道は出来る。
 そしてくるりとこちらをきりりと振り向いた気がした。
何だか、私に復讐を誓っているような面もちだった(そのように見えた)。
 時折に、とても美しい虫と出会うことがあった。背中が虹色に輝いているのだ。その光沢の様子に見とれているうちに、ささっといつも草の葉の陰に隠れていなくなってしまう。夢を見ているみたいだった。
 その後、図鑑で夢中になって探してみた。その名はハンミョウ。いつも捕まえたいと思って、なかなか、すばしっこくて難しかった。憧れや夢というものは手に入らないほうがいいのかもしれない。
この虫だけは、瓶に閉じ込めてはいけない、聖なる存在のようにいつも思っていた。

 カマキリの卵を野原で見つけると、いつもランドセルに入れておくことにしていた。朝に目を覚ますと、私の枕元に小さなカマキリたちが列を成して歩いていた。ぱっと飛び起きると、部屋中を生まれたてのカマキリたちが大行進。たくさんの卵からふ化をしたのである。全てを逃がすのがとても大変だった(と母に聞いた。私はただ喜んでいたらしい)。
これは小さな赤ちゃんたちの反乱だったのか。
 ミツバチの巣をある時に発見した。草の穂のようなもので、いたずらをしてみた。するとハチたちがそこにたかりはじめた。すぐに草を動かしている私の指を刺した。あまりにも痛くて、茶の間に転がり込んで泣いていたら、ばあちゃんがキンカンを塗ってくれた。するとたちどころに痛みは消えたのだった。ひとしきりそれがおさまってから、ミツバチは一度刺し終わると死んでしまうことを、ばあちゃんから聞いて、もう一回泣きたくなったのを覚えている。
 スズメバチに刺されたことがある。これは成人してからである。
夏の真盛りの日の午後だ。蔵の前で草むしりをしている時に、ばあちゃんは、スズメバチがたくさん飛び回っているのを発見。助けを呼ぶ声がしたので、急いでばあちゃんの元へ行き、手を引いた。手の甲を見事に刺された。激痛。キンカンを思い出して塗ってみたが、全く痛みはとれない。 
 刺されてしまってあまりの痛さにショック死する人もあるそうだが、良く分かった。ハイレベルに、かなり高圧的に、ずっと蜂の鋭い尻の先が迫り続けてくる感じ。少しも調子を休めないスズメバチの仕業。痛みで気が遠くなっていく。いや痛すぎて、それすらもならない。
 虫たちの復讐が頭をめぐる。
 洗面所の白い壁を一心に這う影。
 蟻。
 くるりとこちらを振り向いて、きりりとした顔。
 羽根の音。
 汗。
 蟻が飛ぶ。
 飛ばない。
 夏が来る。
  

★ 読んで下さり、ありがとうございます。

 「スズメ蜂との確執」
 「カマキリとカエルの卵」
 「○○○の赤ちゃんと鳩の卵」
 「真夜中にカブト虫の幼虫をとりに」
 「亀の又三郎」 

  などについて、あらためてまた、書きたいと思っています。

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