震災の経験は骨が記憶している。

 阪神淡路大震災を経験した方に、こううかがったことがある。「震災の経験は骨が記憶している」と。直後から一ヶ月、千二回の余震にさいなまれたことになるが、確かに〈記憶〉は刻まれている。いわゆる「地震酔い」と呼ばれるものがずっと続いていて、そうでないときにも揺れの残滓は体内にあり、揺りかごの中のようだった。今もなお少しの地鳴りでも体が反応するのはそのような〈骨〉からの指令によるのかもしれない。

 揺すぶられる恐怖にいつも脅えながらも、私にはそれがそのまま発語へと向かっていった事実は、何よりも私を支えてくれたものとなった。私が詩作を始めた九〇年代の初めからずっと言葉や詩の無力を語られ続けてきたことも多かったこの世界であったが、少なくとも揺すぶり続けられる恐ろしさから自我意識のようなものがすり減らされ失われていくかのような感覚から、救い出してくれる力を私の内面に与えてくれたのだ。

 私は二〇年前になるだろう、寺山修司の「奴碑訓」の感激体験を思い出していた。奴碑たちが不在なる主人を探して待ち続けている話だが、人物たちはみな髪型も服装も同一の姿をしていて、何者かでありまた何者でもないという没個性の姿があった。地の震えに脅えて次を待つしかない私の、退行して空っぽになっていく精神状態が、これとどこか似ているように感じた。

 この時に言葉が、奪われていくそれをくい止めてくれたと今も思う。少なくとも意識は、文字を紡ぐという方向へと向かった時に、かろうじてではあるが震災直後の非常時にあって私もまた詩人の端くれであることを思わせてくれた。だがそれは己の詩というものがこのような事態においてどのような役に立つものなのかということを始終、根底から疑問視させるものであった。

 それよりも生死、あるいは衣食住。人はパンのみに生きるにあらず…、いややはりパンに生きるのだ。何よりもそれは私は我が子のため、家族のためだ。水と食料を求めてさまよい歩く。長い行列に並び、水やおむすびの配給を受ける。店の中で時には奪い合うようにして食料を買う。このような状況の中で私は、詩をやはり書くのだろうか。あなたは詩を書くだろうか。私はやはり生きることが先だと実感した。

 3月16日から詩を書き始めたが、その間の5日間の私は少なくとも「私の詩は無力だ」と思わざるを得ない、精神の喪失の日々だった。しかし、たった5日間という空白の間で詩作に専念し始めることが出来たことにこそ、今は感謝しているが…。私の詩作の根源は実験と挑発の欲求にある。このことはこれまでの二十数年の詩作においても震災後の「詩の三部作」においても私の中では何ら変わらない。

 しかしこの〈実験・挑発〉のまなざしが、日常をすっかりと覆し、数多くの死者をもたらす惨事を前にして視界を失い、むしろ睨み返されてしまった。この時に私は少なくとも己の〈実験・挑発〉の精神はすっかりと奪われてしまい、手も足も出ないことをことごとく知った。いつも持ち歩いているモレスキンの黒い手帳がある。空白の時間はひたすらそこに、眼前に起こっていることを稚拙に列挙・羅列している。掲載出来ないようなひどいものだが、そのまま写させていただくことをお許しいただきたい。

 「会議中に緊急地震速報があり、少し経ってから、かつてない揺れを感じる、窓から脱出、見上げると三階の窓が割れて、地鳴り、立っていられないほどの衝撃、父母、家族がとても心配である、窓から出るとすぐに霙が降り、髪と服が濡れる、近所の人もみな外に出ている、お菓子屋さんがハシゴをかけて看板を外そうとしていて、止められる」。職場の会議中に本震。直後に霙が降った。異常事態と気象だった。少しめくる。

 「テレビを見ると、気仙沼の港町が黒い海流に飲み込まれていくのを眺める、初めて大きな事件が起こったと自覚」。これは夕方に大渋滞を抜けて地元の新聞社へ行き、いろいろと相談事をしている最中に、守衛室でたまたま見た映像への衝撃を書いている。ちなみに相談というのは、翌日に控えた、福島泰樹さんやねじめ正一さん谷川賢作さん、宮沢和樹さんらを招く予定だった、宮沢賢治と中原中也と草野心平をめぐるイベントの件についてであった。

 「自宅へ戻ると、大変な状況、ただ唖然とする、本が散る、本棚が倒れ、ガラス散乱、博多人形が破損、食料を買った方が良いということになり、コンビニへ、既にすごい人だかり、弁当、おにぎりとか、全くなし、やはり凄い事件が起きている、食パンやソーセージ、せんべいを獲得、その間も揺れは断続的に続く、避難所へ行くことにする、避難所はかろうじて、3人が横たわることの出来るところを発見、すみっこに横たわる、妻は仙台の弟のことを心配して、ずっと泣いている」。

 ここでこの日は終わっている。記さなかったところも大体このような調子だ。そしてこの記述は「すみっこに横たわる」の直後に、暗いところで小一時間ほど思い返しながらの筆記だった。日記をつける習慣のない私だったが、どうして、何のために書いたのだろうか。言わば空襲を受けた直後のような現場で、なぜ役にも立たないようなものを暗闇で必死に連ねたのだろうか。

 そうでもしなければ、私は次へと進めなかった。ともかくも矛先を前へと向けられなかった。このような稚拙な私の記録が、誰へのものでもない私のためにだけ書かれた数頁が、この日の私をまとめてくれて闇の中で目をつむることを許してくれた。恥ずかしくも書き写しながらあらためて思う。ここには何の詩句も比喩も書かれていないということ。夜更けを過ぎても、本震と同じほどの余震の恐怖に避難所の人々は眠りに入らずにまぶたを閉じたまま夜を明かしたが、詩は書いていない。発想すらしていない。この時、私は詩人なのか。

 3月12日。本日は中止であることを新聞に告知をしていただいたが、朝から問い合わせが来ているとのこと。イベント会場に来て下さった方々に、本日は中止であることを伝えてお詫びをしなくてはいけないと思い、夕方までその応対をする。三十数名の方がこのような時でも足を運んできて下さった。これらのことが主に書かれている。おだやかな筆致から、まだ原発爆発の事実と恐怖を福島市の我々といおうか私はよく認識していなかったことも分かる。それを知ったのは午後一時過ぎだ。

 「突然に偏頭痛、落胆すると偏頭痛、ひどく落ち込む、情けない気持ち、原子力発電所(13:36)が爆発、避難の知らせ、衝撃、大熊、双葉、富岡、浪江、楢葉の住居避難、よく知っている土地だけに衝撃、あまりのことで涙ぐむ、後輩から自宅に泊めて欲しいと電話、家の中は滅茶苦茶で避難所にいることを伝え、情けない気持ち、偏頭痛」。

 もともと字の下手な私だが手帳はもはや判読出来ない字になっている。そのまま書き写したことを許していただきたいのだが、正確には私が爆発と避難を知った時間が、午後一時を過ぎたということであり、爆発と浜通りの方々の避難はもう11日の直後から始まっていて、その日の夜にはピークを迎えている。いわゆる原発二〇キロから三〇キロ圏内の浜通りの町全体の避難の動きは12日の朝早朝から開始されている。私は朝からイベントの中止のことで頭が一杯で、ひと息ついてそれを知ったのであった。しかし全体がパニック状態だったからな…、と思い返している。

 3月13日。やはり避難所で夜を明かした。この日は十数頁も書いていて、中には箇条書きや殴り書きも。「昨日の夜は、死者・不明者は、およそ1000人だったが、翌朝で1500人になっていた、弟は山形から友人が車で迎えいってくれて家まで戻ったとのことで、小さい頃から友だちと仲良くしている人だから人柄なのだと妻が喜んだ、そう思った」「車が濁流に飲まれているのが分かった、ケータイや避難所でテレビを見ると、原発のニュースをひっきりなしにやっている、薬(ヨウ素剤)を飲むことにした、と言っている」「パンと水をもらった、車椅子の方は椅子に座ったまま眠っている、相変わらず宮城の佐藤さんと、岩手の宮沢さん、牛崎さんにはつながらないままだ、学校休校、ガソリンスタンドは緊急車のみ、放射性物質拡散かの大見出し、南三陸町では1万8000人の町の人口に対して一〇〇〇〇人も連絡がつかず不明であるとのこと、町では役場が崩壊して連絡をつける方法がないとのこと、避難所の水(競馬場の下にたくさんの水が溜められているとのこと)が少なくなってきたらしい、配給(いつも食べに行っている珍満・おむすび、フルーツ、唐揚げ)をいただく、申し訳ない、いたたまれない、頭痛、偏頭痛。」

 頭痛があり、治まりを繰り返している。この日は7万から8万人が福島から避難している。お世話になっていた場所も避難者が増えてきた。場所をあけるために家に戻らなくてはと感じて、まずは食料だと書いてある。正午過ぎに噂を聞いてスーパーに向かっている。その時のショックが殴られて記されている。出だし「頭が少しずつ痛くなって/去っていく/波/陣痛/地震」。この数行は不可解だが、分かち書きになっている。詩のようなものを書こうとしていたのかもしれない。「スーパー、カップラーメンを、奪い合う、人混み、ゆずり合いもある、お年寄りが座ってしまう、人混みに酔った、糖尿病とのこと、一人暮らしとのこと、走っていく人々、走ってくる人々、食糧がなくなるといっせいに消える、あると、いっせいに集まる、時には取り合う、どこでこの食料が調達され、また消えていくのかが分からないが、まるで泡のようだ、津波、地震、一列に並ぶ人間たち、死者・不明者2500人から、2700人へ」。

 地震発生から3日目。ほとんど眠らずに過ごしてきて茫然自失の時間の中で静かに時には狂ったように手帳に文字を埋めた。そのようなことがあって初めて、「まるで泡のようだ」と書いたが、私に比喩が戻ってきた。獣のような目つきで人を押し分けて、押し分けられているうちに、ここで争奪を繰り返す生者と、災いという波打ち際から向こうへ行ってしまった死者を想った。

 二十数年、実験と挑発を掲げて、比喩の限りを人生を賭して追いかけようと心に決めてきた、現代詩というものに魅せられてきた私は、これほどに何とも脆弱な稚拙な未熟な甘ったれの詩人もどきであったのか。はっきりと分かった。この震災において様々な言説を読んだし私自身も言ってきたこと…、この震災をたとえようがない。これは比喩の本質を、詩を本当は信じていないということとである。現代詩というものの可能性と日本語の本質を、あるいはこの国の崩壊と不条理を、子孫に残すべき生活と未来の意味を、どこかで格好良くまとめようとしてきただけである。ここから先の私の手帳に、やはりなかなかに比喩は生じていない。このような記述に自分で傍点を付している。「このまま何かが大きく動き、あるいは大きく変わらないとしたら、どうなるのか。

 自分で示した強調はここだけだ。さらにこう続けている。「避難所の人々はみなどう受け止めているのだろうか。一体感があるが、家族と呼ぶには他人すぎる、多過ぎる。津波は駅をまるごと奪っていったと後輩はさっき電話で言っていたが、私が暮らした町はどう変わってしまったのか」。この「町」は南相馬市(旧原町市)を指している。ここまで書いて、家に戻った。まだまだ手帳の記述は続く。こんなことも書いている。「地球偏頭痛」。この日はほとんど手帳に書き続けていたことになる。この状態がずっと続き、16日の夕方にツイッターに書き込みをすることとなった。それからほとんど毎日、夥しく書き続けることになるが、かなりの時間が過ぎるまで私はこの手帳の代わりに、電子媒体に向かっていたに過ぎない。

 やがて家族を避難(4月8日には戻る)させて、余震と放射腺量の高さ、ライフラインの停止から家に居り、一日中、一四〇字という制限とにらめっこしながら過ごした。ツィッターという意味と、自分のもはや瓦礫になってしまった詩の概念が重なったのだ。密室でいろんなことを思い出した。

 特に三者の印象深い言葉を思った。二〇代の始めに出会った詩人でもあった作家・井上光晴さんの「書いて書いて自分を創造していくんだぞ」という助言。これは今なおこの震災の出口の見えない福島で物書きをし続けている私の目に見えない思想である。谷川俊太郎さんの「詩は細工物、美しい細工のある小箱を作りたいと思っている」という一言。吉増剛造さんがある時に語っていた「細い枝や草の根のようなところに分け入るようにして詩を書きたい」という詩境。

 詩は誰のために書くのか。私はあくまでも自分のために書くのだ。創造するため、箱を作り続けるため、静かな深い難しさに分け入るために。このようなことを考え始めている。福島の問題が終息しない限り、なお変わらないであろう。

初出「現代詩手帖」

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